オルブライト国務長官。こういう人が「今晩は」と訪ねてくると困るだろうな。そういう人みたいな…。




2000ソスN10ソスソス26ソスソスソスソス句(前日までの二句を含む)

October 26102000

 鳥渡る勤め帰りの鞄抱き

                           深見けん二

ルの谷間から見上げる空にも、鳥の渡ってくる様子は見える。一日の仕事に疲れての帰宅時、なんとなく空を見上げたら、いましも渡っていく鳥たちが見えた。その昔「月給鳥」などという自嘲もあったが、大空を渡る鳥の姿は自由で羨ましい。黒い鞄を抱きながら、しばし見惚れたというところ。サラリーマンには、身に沁みる句だ。このときに胸に抱いている黒い鞄は、不自由の象徴だろう。それを、後生大事に抱いていなければならぬ侘びしさ。鞄の色など書かれてはいないが、この場合には、どうしても昔の平均的サラリーマンが持っていた黒い色のでないと味が出ない。私も、そんな鞄を持っていた。たいした物が入っているわけでもないのに、持っていないと不安というのか、何か頼りなさを感じたものだ。最近の人は、あまり黒い鞄を持たない。千差万別。意識的に街で観察してみたら、まさに千差万別だ。となれば、勤め帰りに見る渡り鳥の印象も、掲句のようには感じられないのかもしれない。鞄一つが変わったのではなくて、勤め人の意識が、昔とは大違いになっているということだろう。生涯サラリーマンで安住(?!)したかったのに、行く先々で会社がこわれてしまった私などには、掲句の侘びしさすらもが羨ましく写る。渡り鳥は、鳴いて渡る。昔のサラリーマンもまた、鞄を抱いて泣いて世間を渡っていた。というのは嘘で、ちゃんとした終身雇用制度下のサラリーマンは、この侘びしさをどこかで楽しむ余裕もあったということ。と書いても、べつに作者に失礼にはあたるまい。『雪の花』(1977)所収。(清水哲男)


October 25102000

 他界にて裾をおろせば籾ひとつ

                           中村苑子

途の川は、死んでから七日目に渡る。三つの瀬は流れの緩急にそれぞれ差があって、どの瀬を渡るのかは生前の行いによるという。掲句の場合は、せいぜいが裾をからげて渡れたのだから、作者の現世での行いは非常によかったことになる。と言っても作者はご存命でなので、誤解なきように。三途の川を渡る際には、途中で衣服を剥ぎ取る鬼がいるので油断はならない。が、幸いそういうこともなく無事に渡り終えた。とりあえずホッとした気持ちで裾をおろしてみたら、「籾(もみ)」が一粒ぽつりと落ちたと言うのである。それだけのことだが、この「籾」の存在感は強烈だ。なぜなら「籾ひとつ」だけが、唯一そこでは生きたままだからである。ちっぽけな「籾」が、ひどく生々しい。さて、この一粒をどうしたものか。作者ならずとも、誰もが困惑するだろう。奇妙な味のショート・ストーリーでも読んだ感じがする。「他界にて」はむろんフィクションだが、裾から落ちた「籾ひとつ」は、現実体験に根ざしたものだろう。実際には「籾」ではなかったかもしれないけれど、何か小さな植物の種。小さくても、大きな生命体を胚胎しているもの。そういうものが場違いな場所に落ちると、気分が不安定となり落ち着けなくなる。まして「他界に」おいておや……。農家の子だったこともあり、一読者の私もひどく落ち着かない気分のする句だ。『白鳥の歌』(1996)所収。(清水哲男)


October 24102000

 懸崖に菊見るといふ遠さあり

                           後藤夜半

ろそろ菊花展のシーズンだ。昨秋は、神代植物園(東京・調布)に見に行った。ああいうところに、花の盛りを揃えて出展する人は、さぞや神経を使うのだろう。花を見ていると、そんなことが思われて、ただ見事だなというだけではすまない。花の真横に、育てた人が心配げに立っているような雰囲気がある。生花ではあるが、造花なのだ。「懸崖(けんがい)」は「幹または茎が根よりも低く垂れ下がるように作った盆栽[広辞苑第五版]」。たしかに懸崖の菊を見るには、ある程度の「遠さ」が必要となる。近くでは、全体像をつかめない。敷衍すれば、何かを見るときには見るための「遠さ」が必要ということであり、これは菊花のような実像だけではなく、虚像においても幻像においても同様だろう。当たり前と言えば当たり前。だが、この当たり前に感じ入る心は、俳句という装置の生みだしたものだ。俳句でなければ、この「遠さ」に着目するチャンスはなかなかないだろう。三島由紀夫の小説の叙景には「遠近感」がない。その位置からは遠くて見えないはずの景色のディテールを、目の前で見ているように書く。そう言ったのは磯田光一だったと記憶するが、小説家には案外遠近の意識は薄いのかもしれない。だとすれば、小説という装置がそうさせるのだと思う。『底紅』(1978)所収。(清水哲男)




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