十月尽。今月は下方の写真やコラムの更新をさぼってしまった。とりあえず下の看板を塗り替えねば。




2000ソスN10ソスソス31ソスソスソスソス句(前日までの二句を含む)

October 31102000

 翻訳の辞書に遊ばす木の実独楽

                           角谷昌子

集の後書きによれば、作者は文部省関連事業のボランティアとして海外派遣に携わってきたという。語学に堪能な人のようだ。さて、この単語をどう翻訳すべきか。思案しながら、たまたま机の上にあった「木の実独楽(このみごま)」を辞書の上でまわしてみる。思案はあくまでも翻訳語の上にあるのだから、上手にまわそうというのではなく、なんとなくまわしながら的語を「ひねり出そう」というわけだ。翻訳の仕事ではなくとも、人は思案に行き暮れたときに、ほとんど無意識のうちに何か別の行為にはしる。頭を掻きむしっている昔の文士の戯画があるが、あれなどもその一つだ。掻きむしったところで、よい知恵の浮かぶ保証があるわけでもないけれど、とにかく何かせずにはいられない。それがだんだん「癖」になってくる。私の場合には、行き詰まると煙草を吸う。とくに吸いたくもないのに、いつの間にか口に銜えている。煙が立ち上っていると、心が落ち着いてきて次に進めるようである。煙草に火がついている時間は、ほぼ三分間くらいか。この時間はいつも一定しているので、ちょっと思考の息を整えるのには、私にはちょうどよい時間幅ということだろう。このデンで言えば、作者の癖は机上で何かを手にしては転がすこと。あるいは、掌中で何かを玩ぶことのようだ。「木の実」の季節が過ぎると、何を掌中にするのだろうか。『奔流』(2000)所収。(清水哲男)


October 30102000

 日当りの土いきいきと龍の玉

                           山田みづえ

が群生し葉先の長い「龍の玉(りゅうのたま)」の実は、一寸かきわけないとよく見えない。虚子の句「竜の玉深く蔵すといふことを」は、この様子からの発想だ。木の下などの日蔭の植物というイメージが濃いが、掲句では日にさらされている。垣根か庭の下草として植えられたものだろうか。眼目は「龍の玉」そのものからは一度焦点が外されて、周辺の土から詠んでいるところだ。土を詠んで、もう一度「龍の玉」に目が向けられている。陰気といえば陰気な「龍の玉」が「日当り」にある姿は、たぶん生彩を失っているだろう。瑞々しさが減り、埃っぽい感じすら受ける。だから余計に、土の「いきいきと」した様子が浮き上がる。そこで「龍の玉」は、身の置き所がないように俯いている。人に例えれば、内気な人が急に晴舞台に引っぱり上げられたようなものである。作者は土の勢いに感嘆しつつも、身を縮めている風情の植物にいとおしさを感じている。この素材に、こうした着眼は珍しい。一筋縄ではいかない感性のありようを感じる。「龍の玉」の実は「はずみ玉」とも言われるように、固くて弾力があり、子供のころは地面に叩きつけて遊んだりした。もっとも、叩きつけた地面(土)の勢いなど、何も感じなかったけれど……。たぶん子供は自分の命に勢いがあるので、自然の勢いなどには無頓着なのである。『木語』(1975)所収。(清水哲男)


October 29102000

 行先ちがふ弁当四つ秋日和

                           松永典子

日あたり、こんな事情の家庭がありそうだ。絶好の行楽日和。みんな出かけるのだが、それぞれに行き先が違う。同じ中身の弁当を、それぞれが同じ時間に別々の場所で食べることになる。蓋を取ったとき、きっとそれぞれが家族の誰かれのことをチラリと頭に描くだろう。そんな思いで、弁当を詰めていく。大袈裟に言えば、本日の家族の絆は、この弁当によって結ばれるのだ。主婦であり母親ならではの発想である。変哲もない句のようだが、出かける四人の姿までが彷彿としてきてほほ笑ましい。こういうときには、たいてい誰かが忘れ物をしたりするので、主婦たる者は、弁当を詰め終えたら、そちらのほうにも気を配らなければならない。「ハンカチ持った?」「バス代は?」などなど。家族の盛りとは、こういう事態に象徴されるのだろう。みなさん、元気に行ってらっしゃい。また、こういう句もある。「子の布団愛かた寄らぬやうに干し」。よくわかります。一応ざっと干してから、均等に日が当たるようにと、ちょちょっと位置を微妙に修正するのだ。今日あたり、こういう母親もたくさんいるだろう。ちなみに「布団」は冬の季語。「とても好調だ、典子は」と、これは句集に添えられた坪内稔典さんの言葉だ。『木の言葉から』(1999)所収。(清水哲男)




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