November 022000
地の晩秋血を曳いて犬もどりくる
酒井弘司
喧嘩でもしたのだろうか。「血を曳いて」犬がもどってきた。蕭然(しょうぜん)と頭を垂れて……。このときに「血」と「地」という「ち」音の響きあいは、切なくも「晩秋」の季節感につながっている。日本語の微妙なところで、他の季節であれば、この音の打ち合わせは似合わない。「地の晩夏」「地の晩春」などに入れ替えてみれば、よくわかる。「ち」音が重なることで発している雰囲気は、身体や心のどこかがちりっと痛む感じである。ちりっと痛むのは、やはり晩秋の冷たい外気との触れ合いにこそ似合っている。「真冬」では寒すぎて、ちりっとは来ない。この句には含意があって、もどってきた犬は、実は作者自身でもあるだろう。心に傷を負って(「血を曳いて」)もどってきた自分自身の姿が、犬のそれに託されている。そしてさらに、作者は「もどってくる」という行動それ自体に、悲しみを覚えている。泣きながら、自分の住処にもどってくる。それはなにも、喧嘩に負けた犬や子供に特有の行動ではない。大人だって、泣きながら我が家にもどるのだ。そこには癒しや慰めの空間があるからだ。正確に言えば、もどったからといって受けた傷が根元から癒されるわけもないのだが、人は癒しや慰めを錯覚できる空間として住処や家庭を作ってきたのである。まことに悲しい知恵ではないか。その悲しい知恵のなかに、泣きながら人はもどる。もどるしかない。そのことへの深い悲しみ。泣き虫の人には、よくわかる句だろう。『朱夏集』(1978)所収。(清水哲男)
December 052012
シーソーの向ひに冬の空乗せて
荻原裕幸
新しいスタイルのシーソーがあるようだが、原理は同じ。今どきの子どもは果たしてシーソーなどで、楽しがって遊ぶだろうか。シーソー、なわとび、ブランコ、かくれんぼーーこういう遊びを失ったのが、今どきの子どものように思われる。「カワイソーに」などと思うのは私の勝手。シーソーは「ぎっこんばったん」とも「ぎったんばっこん」とも呼ばれ、以前はどんな貧弱な公園にもたいてい設置されていた。私も幼い子どもとシーソーで遊んだ頃は、足で跳ねあがってバランスをとったり、向こうに子どもを二人乗せてバランスをとろうとしたり、やれやれ親というものも結構せつないものだったなあ。掲句は向かいに「冬の空」が乗っている。それはいったいどんな「冬の空」なのか。寒さ厳しい冬とは言え、句にはどこかしら微笑ましい動きがにじんでいる。向かいに乗った「冬の空」の重さと自分の重さ、それによって、冬の寒さは厳しかったりゆるかったりしているのだろう。このシーソーのバランスが、あれこれと想像をかきたてるあたりが憎いし、スリリングである。裕幸は《わたしを遮断するための五十句》と題して一挙に発表している。他に「晩秋のシャチハタ少し斜に捺す」「広告にくるめば葱が何か言ふ」と、自在な句がならぶ。「イリプスII nd」10号(2012.11)所載。(八木忠栄)
November 292013
ぼんやりと晩秋蚕に燈しあり
波多野爽波
蚕は、本来、春季であるが、晩夏から晩秋にかけて飼育されるものを「秋蚕」という。春と比べて、飼育日数も少ないが、繭の品質は劣るという。晩秋の蚕がぼんやりと照らされている。おそらく、裸電球であろう。照らされている蚕は、ただ、ひたすら桑の葉を食べているが、それを見つめている作者の意識は、朦朧と揺らぐような感覚の中へ誘われる。波多野爽波は、俳句において『農』のくらしを詠むことの重要性を、しばしば説いた。しかしながら、この句には、農のくらしへの親和感は微塵もうかがえない。『湯呑』(1981)所収。(中岡毅雄)
October 122015
晩秋や妻と向きあふ桜鍋
小川軽舟
句の生まれた背景を日記風に綴った句集より、本日の日付のある句。俳句は日常のトリビアルな出来事に材を得る表現でもある。言ってみれば、消息の文芸だ。読者はしばしば作者と同じ季節と場所に誘われ、そこに何らかの感慨を覚える。むろん、覚えないこともあり得る。作者によれば、妻と桜鍋を囲んだのは「みの家」だそうだが、この店なら違う支店かもしれないが、私もよく知っている。久しぶりの妻との外食だ。考えてみれば、妻と待ち合わせての外食の機会はめったにない。どこの夫婦でも、そうだろう。だから久しぶりにこうして外で顔を突き合わせてみると、ちょっと気恥ずかしい感じがしないでもないけれど、お互い日常的に知り抜いた同士だからこその、なんだか面はゆい感覚が良く出ているのではあるまいか。「さあ、食うぞ」という友人同士の会合とはまた一味も二味も違う楽しさも伝わってくる。『掌をかざす・俳句日記2014』(2015)所収。(清水哲男)
『旅』や『風』などのキーワードからも検索できます
|