「文化の日」が明治天皇誕生日であることは知られている。現憲法発布日であることは知られていない。




2000ソスN11ソスソス3ソスソスソスソス句(前日までの二句を含む)

November 03112000

 黄落の我に減塩醤油かな

                           波多野爽波

嘲というよりも、戸惑いの苦笑に近い句。作句年齢は、還暦前後と推定される。比喩的に言えば、まさに人生の黄落(こうらく)期にさしかかってくる年齢での句だ。「我に」と言うのだから、「我」以外の家族は「減塩醤油」ではないわけだ。おそらくは、妻か嫁さんの特別な気遣いから出された「減塩醤油」なのである。その気遣いを、どう受け止めればよいのか。作者は「減塩醤油」の小瓶を「ほお」とひねくりまわしながら、複雑な心境にある。健康を気づかってくれるのはありがたいが、塩味を抜いた醤油の美味かろうはずもない。といって「普通の醤油でいいよ」と言えば角が立つ。さても、哀れなことになっちまったな。そういう句である。この句を読んで思い出したのは、学生時代に遊びに行くと、祖母が必ずこぼしていた言葉。「あの人たち(息子夫婦)は美味しいものを食べて、私には食べさせてくれない」。嫁さんに取材してみたら「お年寄りには毒ですさかいに……」。この行き違いが、掲句のモチーフに含まれているだろう。還暦を超えた私には、ようやく実感的に句意が響いてくる。で、ここからは私の願望と意見。年寄りには、好きなものを食わせよ。ついでに、禁酒禁煙などもとんでもない。小津映画でお馴染の俳優・中村伸郎さんは大の煙草好きだった。が、晩年は「健康」のためにと、医者からも周囲からも厳しく喫煙を禁じられた。当人が死ぬ苦しみで煙草を我慢しているうちに、本当に死んでしまった。通夜の席で誰言うとなく、みんなで煙草を吸って線香代わりに霊前に捧げたのだという。そんなアホな。中村さんにちらりと面識のあった私としては、大いに義憤を感じましたね。『骰子』(1986)所収。(清水哲男)


November 02112000

 地の晩秋血を曳いて犬もどりくる

                           酒井弘司

嘩でもしたのだろうか。「血を曳いて」犬がもどってきた。蕭然(しょうぜん)と頭を垂れて……。このときに「血」と「地」という「ち」音の響きあいは、切なくも「晩秋」の季節感につながっている。日本語の微妙なところで、他の季節であれば、この音の打ち合わせは似合わない。「地の晩夏」「地の晩春」などに入れ替えてみれば、よくわかる。「ち」音が重なることで発している雰囲気は、身体や心のどこかがちりっと痛む感じである。ちりっと痛むのは、やはり晩秋の冷たい外気との触れ合いにこそ似合っている。「真冬」では寒すぎて、ちりっとは来ない。この句には含意があって、もどってきた犬は、実は作者自身でもあるだろう。心に傷を負って(「血を曳いて」)もどってきた自分自身の姿が、犬のそれに託されている。そしてさらに、作者は「もどってくる」という行動それ自体に、悲しみを覚えている。泣きながら、自分の住処にもどってくる。それはなにも、喧嘩に負けた犬や子供に特有の行動ではない。大人だって、泣きながら我が家にもどるのだ。そこには癒しや慰めの空間があるからだ。正確に言えば、もどったからといって受けた傷が根元から癒されるわけもないのだが、人は癒しや慰めを錯覚できる空間として住処や家庭を作ってきたのである。まことに悲しい知恵ではないか。その悲しい知恵のなかに、泣きながら人はもどる。もどるしかない。そのことへの深い悲しみ。泣き虫の人には、よくわかる句だろう。『朱夏集』(1978)所収。(清水哲男)


November 01112000

 猫のぼる十一月のさるすべり

                           青柳志解樹

月の特徴や風情を一息で射止める。まさに俳句の醍醐味であるが、作ろうとすると非常に難しい。陽暦での話だが、比較的イメージのわきやすい月もあって、例えば十二月や三月や五月。一月などは比較的簡単そうだが、最初の日々に新年という観念の波がかぶさり過ぎるので、一月全体を季節感として表現するとなるとなかなかに難しい。月半ば以降になると、もはや新年という観念は薄れがちになるからだ。ならば、十一月はどうだろうか。紅葉の月、落葉の月、行楽の月。そうした特長もいくらかはあるけれど、天候の変化にも乏しく、茫洋として掴みがたい。加えて、人事的にもさして動きのない月である。秋から冬へと季節が静かに動いていくだけなので、これといった決め手や殺し文句には欠けている。その決め手のなさを逆手に取ったのが、掲句だろう。この時期の「さるすべり」はもう、ほとんど裸木だ。そのつるつるした木を、猫がするするっと苦もなくのぼっていく。たぶん、小春日和の暖かい日なのだ。でも、ただそれだけ。全て世は事も無し……。これが「十一月」の風情ですねと、作者はおだやかに言い留めている。句のスタイルそのものが、そのまま「十一月」の掴みがたい風情としっくり溶け合っているように思える。「十一月」の句でよく知られているのは、中村草田男の「あたゝかき十一月もすみにけり」だ。この句もまた、茫洋の月を茫洋のままに詠んでいる。『新歳時記・冬』(1989・河出文庫)所載。(清水哲男)




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