November 052000
鵙啼や竿にかけたるあらひ物
浦 舟
楽屋話。ここに載せる句に行き詰まると、ぱらぱらと拾い読みする本の一冊に、岩波文庫の柴田宵曲(1897-1966)『古句を観る』がある。元禄期無名俳人の句ばかりをコレクションして、その一つ一つに短い鑑賞文を添えた本だ。掲句も、集中の一句である。集められた句には、さすがに威風堂々あたりを払うような名品は見あたらないけれど、宵曲の道案内に従っていくと、有名でない句にも、よさのあることがよくわかる。どんな俳句でも面白いんだ、べつに威風堂々の風を吹かすばかりが能じゃない。これが、彼の江戸俳句を読む前提の心映えである。拾い読みしていると、こういう「気」が伝染してきて、正気に立ち戻れる。ついつい句に対して構える気持ちが、すうっと消えてしまう。そうだ楽しまなくては、と思い直せるのだ。掲句は、鋭く啼き立てる鵙(もず)と洗濯物の取りあわせ。明るい秋の日和を連想させるが、発想は平凡だ。「……という人があるかもしれぬ。けれどもそれはその後において、この種の趣向がしばしば繰返されたためで、浦舟の句が出来た時分には、まだそれほどではなかったのではないかという気がする」。この「気がする」はさりげない留めに見えて、実は古句を渉猟した者の自信が発した「さりげなさ」である。このような「気がする」が随所に出てきて、そのたびにハッとさせられる。そこで、もう一度句を眺めることになる。宵曲の「気がする」に誘われて掲句を眺め返すと、竿にかけられた「あらひ物」が生き生きと目に浮かぶようになるから不思議だ。鵙の声も、やかましい。句空間の張りが、ぐんぐん大きくなってくる。そうか、とくに古い書き物を読むときには心しなければならないなと、凡なる私としては自戒しきりだ。(清水哲男)
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