メーラーを不用意に操ってしまい、住所録が行方不明。これだから機械は困る。と言いつつ、機械好き。




2000ソスN11ソスソス6ソスソスソスソス句(前日までの二句を含む)

November 06112000

 色付や豆腐に落て薄紅葉

                           松尾芭蕉

だ色づいているかどうかも知らないでいた木の葉が、真っ白い豆腐に落ちてきたことで、薄紅葉になっていたことが知れたという意。「色付や」は「いろづくや」。この句を思い出すたびに、京都に行きたくなる。私にとっては、この季節の観光ポスターのコピーみたいな句だ。と言っても、とくだん芭蕉さんに失礼にはあたるまい。よく出来てますよ、旅行雑誌の写真なんかよりも、こうして言葉だけにしたほうが、よほど豆腐の美味さと風趣が際立つような……。南禅寺か嵐山周辺の湯豆腐屋の庭で食べていると、ちょうどこんな感じになる。本当に、薄紅葉が炭火にかけた鍋の上に舞い降りてくる。豆腐の白に映える薄紅葉は、天からの御馳走だ。仲秋を過ぎてからの京都の戸外は、肌寒い。だから、ほとんど日本酒の飲めない私ですら、必ず一本つけてしまう。これが、また豆腐の味わいをより深くする。よくぞ日本に生まれけり。愛国者ではない私が、インスタント愛国者になる数少ない場面である(笑)。もっとも、芭蕉が食べたのは湯豆腐ではないのかもしれない。だったとしたら、句の色合いはかなり変わってくる。寂しくも冷たい美しさ。いずれにしても、この句に美を感じるのは、代々この国に根を張って生きている人たちだけだろう。そんなことに思いをめぐらしていると、不思議な気持ちになってくる。はや、明日は「立冬」。湯豆腐の季節がやってきますね。(清水哲男)


November 05112000

 鵙啼や竿にかけたるあらひ物

                           浦 舟

屋話。ここに載せる句に行き詰まると、ぱらぱらと拾い読みする本の一冊に、岩波文庫の柴田宵曲(1897-1966)『古句を観る』がある。元禄期無名俳人の句ばかりをコレクションして、その一つ一つに短い鑑賞文を添えた本だ。掲句も、集中の一句である。集められた句には、さすがに威風堂々あたりを払うような名品は見あたらないけれど、宵曲の道案内に従っていくと、有名でない句にも、よさのあることがよくわかる。どんな俳句でも面白いんだ、べつに威風堂々の風を吹かすばかりが能じゃない。これが、彼の江戸俳句を読む前提の心映えである。拾い読みしていると、こういう「気」が伝染してきて、正気に立ち戻れる。ついつい句に対して構える気持ちが、すうっと消えてしまう。そうだ楽しまなくては、と思い直せるのだ。掲句は、鋭く啼き立てる鵙(もず)と洗濯物の取りあわせ。明るい秋の日和を連想させるが、発想は平凡だ。「……という人があるかもしれぬ。けれどもそれはその後において、この種の趣向がしばしば繰返されたためで、浦舟の句が出来た時分には、まだそれほどではなかったのではないかという気がする」。この「気がする」はさりげない留めに見えて、実は古句を渉猟した者の自信が発した「さりげなさ」である。このような「気がする」が随所に出てきて、そのたびにハッとさせられる。そこで、もう一度句を眺めることになる。宵曲の「気がする」に誘われて掲句を眺め返すと、竿にかけられた「あらひ物」が生き生きと目に浮かぶようになるから不思議だ。鵙の声も、やかましい。句空間の張りが、ぐんぐん大きくなってくる。そうか、とくに古い書き物を読むときには心しなければならないなと、凡なる私としては自戒しきりだ。(清水哲男)


November 04112000

 萩の野は集つてゆき山となる

                           藤後左右

校の数学の時間に、「演繹(deduction)」「帰納(induction)」という考え方を習った。掲句は四方から「萩の野」が傾斜面をのぼっていき、それらが集まって「山」になったと言うのだから、典型的な帰納法による叙景である。かつての「ホトトギス」で、中村草田男と並び称された藤後左右(とうご・さゆう)の技ありの一句だ。当時の俳人たちを驚かせた一句だと、山本健吉が書いている。そう言われて見回してみると、俳句は演繹による作句法が圧倒的に多いことに気がつく。演繹法は前提をまず認めなければ話にならないので、前提の正しさを保証するために、たとえば有季定型なる約束事があったりする。なかでも季語は、演繹的作法になくてはならない保証書のようなものだ。人々が掲句に驚いたのは、彼がこの保証書を無意識にもせよ引き裂いているからだろう。たしかに、「萩」なる季語は存在する。しかし、ここで「萩」は他の季語とどのようにでも交換可能だ。「菊」でもよいし「百合」でもよろしい。すなわち、左右の「萩」は演繹法における絶対の前提ではなく、帰納法での特殊な前提の位置にある。具体例をあげるまでもなく、名句の季語は絶対であり動かせない。掲句には誰でもが「なるほど」と感心はするけれど、それ以上に感情移入できないのは、このように絶対の前提を欠いているからである。たしかに技はあるが、実がない。とまあ、せっかくの三連休中に屁理屈をこねまわして御迷惑かと思うが、俳句という文芸様式を考える上では、こんな感想も一興かと……。『熊襲ソング』所収。(清水哲男)




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