花屋の店先にポインセチアとシクラメンが出てきた。構わないようなものだが、せかされる気分に。




2000ソスN11ソスソス7ソスソスソスソス句(前日までの二句を含む)

November 07112000

 二重廻し着て蕎麦啜る己が家

                           石塚友二

重廻し(にじゅうまわし)は、釣り鐘形で袖のないマント。「ともに歩くも今日限り」の『金色夜叉』間貫一が熱海の海岸で着ていたのが、このマントだ。あるいは、川端康成『伊豆の踊子』の主人公が着ていたマントである。その二重廻しを着て、蕎麦を啜っているのだから、てっきり夜鳴き蕎麦の屋台での光景かと思いきや、下五でのどんでん返しが待っている。自分の家の室内での光景だったのだ。とにかく、寒い。火鉢も炬燵もない。辛抱たまらずに、出前の蕎麦をとったのだろう。昭和十年代の句だけれど、私にも似たような体験があり、よくわかる。二重廻しではないが、コートを着たうえに毛布まで引っ被って、寒さをやり過ごそうとしていたのは、二十代も後半だった。でも、掲句は自嘲句ではないだろう。誰にも同情なんて、求めてはいない。外出着を、家の中で着て震えている姿の滑稽を言っている。べつに凍え死ぬわけじゃなし、自己憐愍など思いの外で、みずからの情け無い姿を笑っているのである。いや、笑ってしまうしかないほどに、この夜は寒かったのだろう。若さとは、こういうものだ。火鉢や炬燵を買う金があったら、もっと別な使い道がある。我慢できるのも、若さの特権である。同じころの句に「人気なく火気なき家を俄破と出づ」があって、これまたあっけらかんと詠んでいる。いいなあ、若いってことは。昔は若かった私がいま、掲句に対して感じ入っている姿のほうが、なんだか侘びしいような……。『百萬』(1940)所収。(清水哲男)


November 06112000

 色付や豆腐に落て薄紅葉

                           松尾芭蕉

だ色づいているかどうかも知らないでいた木の葉が、真っ白い豆腐に落ちてきたことで、薄紅葉になっていたことが知れたという意。「色付や」は「いろづくや」。この句を思い出すたびに、京都に行きたくなる。私にとっては、この季節の観光ポスターのコピーみたいな句だ。と言っても、とくだん芭蕉さんに失礼にはあたるまい。よく出来てますよ、旅行雑誌の写真なんかよりも、こうして言葉だけにしたほうが、よほど豆腐の美味さと風趣が際立つような……。南禅寺か嵐山周辺の湯豆腐屋の庭で食べていると、ちょうどこんな感じになる。本当に、薄紅葉が炭火にかけた鍋の上に舞い降りてくる。豆腐の白に映える薄紅葉は、天からの御馳走だ。仲秋を過ぎてからの京都の戸外は、肌寒い。だから、ほとんど日本酒の飲めない私ですら、必ず一本つけてしまう。これが、また豆腐の味わいをより深くする。よくぞ日本に生まれけり。愛国者ではない私が、インスタント愛国者になる数少ない場面である(笑)。もっとも、芭蕉が食べたのは湯豆腐ではないのかもしれない。だったとしたら、句の色合いはかなり変わってくる。寂しくも冷たい美しさ。いずれにしても、この句に美を感じるのは、代々この国に根を張って生きている人たちだけだろう。そんなことに思いをめぐらしていると、不思議な気持ちになってくる。はや、明日は「立冬」。湯豆腐の季節がやってきますね。(清水哲男)


November 05112000

 鵙啼や竿にかけたるあらひ物

                           浦 舟

屋話。ここに載せる句に行き詰まると、ぱらぱらと拾い読みする本の一冊に、岩波文庫の柴田宵曲(1897-1966)『古句を観る』がある。元禄期無名俳人の句ばかりをコレクションして、その一つ一つに短い鑑賞文を添えた本だ。掲句も、集中の一句である。集められた句には、さすがに威風堂々あたりを払うような名品は見あたらないけれど、宵曲の道案内に従っていくと、有名でない句にも、よさのあることがよくわかる。どんな俳句でも面白いんだ、べつに威風堂々の風を吹かすばかりが能じゃない。これが、彼の江戸俳句を読む前提の心映えである。拾い読みしていると、こういう「気」が伝染してきて、正気に立ち戻れる。ついつい句に対して構える気持ちが、すうっと消えてしまう。そうだ楽しまなくては、と思い直せるのだ。掲句は、鋭く啼き立てる鵙(もず)と洗濯物の取りあわせ。明るい秋の日和を連想させるが、発想は平凡だ。「……という人があるかもしれぬ。けれどもそれはその後において、この種の趣向がしばしば繰返されたためで、浦舟の句が出来た時分には、まだそれほどではなかったのではないかという気がする」。この「気がする」はさりげない留めに見えて、実は古句を渉猟した者の自信が発した「さりげなさ」である。このような「気がする」が随所に出てきて、そのたびにハッとさせられる。そこで、もう一度句を眺めることになる。宵曲の「気がする」に誘われて掲句を眺め返すと、竿にかけられた「あらひ物」が生き生きと目に浮かぶようになるから不思議だ。鵙の声も、やかましい。句空間の張りが、ぐんぐん大きくなってくる。そうか、とくに古い書き物を読むときには心しなければならないなと、凡なる私としては自戒しきりだ。(清水哲男)




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