新米大統領決定の派手な報道の蔭に置きたかった重信逮捕。公安はタイミング合わせそこなったようだ。




2000ソスN11ソスソス9ソスソスソスソス句(前日までの二句を含む)

November 09112000

 ランプ売るひとつランプを霧にともし

                           安住 敦

集の発行年から推して、敗戦後まもないころの作句だ。したがって、これらのランプはインテリア用のものではなくて、生活必需品である。あの当時は停電も多かったし、電気の来ていない家も少なくなかった。私の子供時代も、ランプ生活を強いられた。そんな事情から、こうして路上にランプを商う人がいたのだ。このときに、「ランプ」の繰り返しは単に抒情の演出を図ったものではないだろう。「ひとつランプを」ともしているのは、商品見本としてであり、また並べた商品を見せるための照明としてである。他人の生活のための道具を、自分の生活のための道具が照らしている。そのことを言っている。そして、秋の夜のつめたい霧だ。ともされたランプの光がぼおっとかすんでいる様子は、夢のように美しい。一瞬、世の中の荒廃や生活苦を忘れさせる夢の灯……。すうっと甘い感傷に流れていく作者の気持ちは、しかし「ランプ」を二度つぶやくことによって、また現実に戻ってくる。この夢幻と現実の響きあいは、けだし絶妙と言うべきか。作者は、短歌から出発した人だと聞く。「霧にともし」と字余りでおさえたところは、短歌の素養から来ているのかもしれぬ。短歌の下七七に来るはずの思いを、字を余らせることで内包させたとも読めるからである。理屈はともかく、従来の俳句とは異質の表現の確かさを感じさせられた。『古暦』(1954)所収。(清水哲男)


November 08112000

 土佐脱藩以後いくつめの焼芋ぞ

                           高山れおな

佐脱藩というのだから、主人公は坂本龍馬だろう。脱藩したのは、二十八歳の春(文久二年・1862)。高知城下から四国山脈を越えての決死の脱藩行だった。この間、八日と言い伝えられる。以後、近江屋で暗殺されるまでの経緯は、ご案内の通り。彼の思想と行動への評価はここではおくとして、革命家と呼ぶにふさわしい生涯だったとは言える。その颯爽たる革命家に焼芋を食わせたのが、掲句のミソだ。食わせたうえに、あれから何本くらい食ったろうかと、しようもないことを考えさせている。天下国家とは、何も関係のない龍馬の姿。革命家であろうが誰であろうが、焼芋も食うしメシも食う。しようもないことも思案する。ただそれだけのことを突きだした句だけれど、これで皮肉は十分に利いている。龍馬に対する皮肉ではなく、龍馬ファンに対するそれであることは言うまでもあるまい。この句を読んで、桑原武夫の「中世フランス文学史」の講義の一端を思い出した。「小説家や詩人が、何を食ってたか、どんな女とねんごろだったか。そんなことはくだらんことと、君らは思うやろう。本当は、そこが大事なんやで……」。同じ時期に、鶴見俊輔から「エピソードは大事なんです」という話も聞いた。私たちは、つい固定観念で、あの人はああいう人と捉えてしまいがちだ。そうは問屋がおろさないのですよと、掲句はやんわり告げている。加えて、焼芋を頬張る龍馬の姿には哀感もある。この哀感があって、俳句になった。俳誌「豈」(33号・2000年10月刊)所載。(清水哲男)


November 07112000

 二重廻し着て蕎麦啜る己が家

                           石塚友二

重廻し(にじゅうまわし)は、釣り鐘形で袖のないマント。「ともに歩くも今日限り」の『金色夜叉』間貫一が熱海の海岸で着ていたのが、このマントだ。あるいは、川端康成『伊豆の踊子』の主人公が着ていたマントである。その二重廻しを着て、蕎麦を啜っているのだから、てっきり夜鳴き蕎麦の屋台での光景かと思いきや、下五でのどんでん返しが待っている。自分の家の室内での光景だったのだ。とにかく、寒い。火鉢も炬燵もない。辛抱たまらずに、出前の蕎麦をとったのだろう。昭和十年代の句だけれど、私にも似たような体験があり、よくわかる。二重廻しではないが、コートを着たうえに毛布まで引っ被って、寒さをやり過ごそうとしていたのは、二十代も後半だった。でも、掲句は自嘲句ではないだろう。誰にも同情なんて、求めてはいない。外出着を、家の中で着て震えている姿の滑稽を言っている。べつに凍え死ぬわけじゃなし、自己憐愍など思いの外で、みずからの情け無い姿を笑っているのである。いや、笑ってしまうしかないほどに、この夜は寒かったのだろう。若さとは、こういうものだ。火鉢や炬燵を買う金があったら、もっと別な使い道がある。我慢できるのも、若さの特権である。同じころの句に「人気なく火気なき家を俄破と出づ」があって、これまたあっけらかんと詠んでいる。いいなあ、若いってことは。昔は若かった私がいま、掲句に対して感じ入っている姿のほうが、なんだか侘びしいような……。『百萬』(1940)所収。(清水哲男)




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