東千代之介死す。茶川一郎死す。そのうちにオレも死す。紅葉でも見に行こう。この命、何をあくせく。




2000ソスN11ソスソス11ソスソスソスソス句(前日までの二句を含む)

November 11112000

 校庭の土俵均され秋の雲

                           塩谷康子

目(ほうきめ)も鮮やかに、土俵が均(なら)されている。縹渺(ひょうびょう)と雲を浮かべて、天はあくまでも高い。好天好日。作者は上機嫌だ。はじめは、これから相撲大会でもはじまるのかなと思ったが、休日の学校風景だろうと思い直した。そのほうが、句の味が濃くなる。たまさか子供らのいない校庭に入ると、不思議な緊張感にとらわれる。学校嫌いだった私だけの感じ方だろうが、なぜか授業中にひとり校庭にたたずんでいるような……。終業のベルが鳴ったら、みんなが昇降口からどっと出てくるような……。もうそんなことは起きないのだと思い直して、やっと安心する。そこで、作者と同じ上機嫌になる。そんな回路でしか、学校句は読めない。ところで、いまどきの学校に土俵はあるのだろうか。句集をひっくり返してみたら、作者は横浜市在住である。きっと近所の学校にあるのだろうけれど、かなり珍しいのではないか。昔は、四本柱の土俵がどこの学校にもあった。当然、男の子は体操の時間に相撲を取らされた。取るといってもねじり倒しっこみたいなもので、当人同士は真剣でも傍目には不格好だ。非力だが、嫌いじゃなかった。力いっぱい取り組んだ後は、負けても爽快感が残ったからだ。取っ組み合いの喧嘩でも同じで、身体と身体を直接ぶつけ揉み合う行為には、奇妙な恍惚感がある。なんだろうなあ、あれは……。中学を出て以来、ついぞそんな気持ちを味わえないままに、ここまで来てしまった。『素足』(1997)所収。(清水哲男)


November 10112000

 よろこべばしきりに落つる木の実かな

                           富安風生

興吟だと思う。いいなあ、こういう句って。ほっとする。そんなわけはないのだが、作者が「よろこべば」、木の実も嬉しがって「しきりに」落ちてくれるのだ。双方で、はしゃぎあっている。幼いころの兄弟姉妹の関係には、誰にもこんな時間があっただろう。赤ちゃんがキャッキャッとよろこぶので、幼いお兄ちゃんやお姉ちゃんも嬉しくなって、いつまでも剽軽な振る舞いをつづける。作者は、そんな稚気の関係を赤ちゃんの側から詠んでおり、実にユニーク。無垢な心の明るさを失って久しい大人が、木の実相手に明るさを取り戻しているところに、いくばくかの哀感も伴う。発表当時には相当評判を呼んだ句らしく、「ホトトギス」を破門になったばかりの杉田久女がアタマに来て、「喜べど木の実もおちず鐘涼し」とヒステリックに反発した。「風生のバーカ」というわけだ。生真面目な久女の癇にさわったのだが、狭量に過ぎるのではないだろうか。俳句は、融通無碍。その日その日の出来心でも、いっこうに構わない。「オレがワタシが」の世界だけではない。そうした器の大きさが、魅力の源にある。バカみたいな表現でもゆったりと受け入れるところも、俳句の面白さである。しゃかりきになって「不朽の名作」とやらをひねり出そうとするアタマでっかちを、きっと俳句の神は苦笑して見ているのでしょう。『合本俳句歳時記第三版』(1997・角川書店)所載。(清水哲男)


November 09112000

 ランプ売るひとつランプを霧にともし

                           安住 敦

集の発行年から推して、敗戦後まもないころの作句だ。したがって、これらのランプはインテリア用のものではなくて、生活必需品である。あの当時は停電も多かったし、電気の来ていない家も少なくなかった。私の子供時代も、ランプ生活を強いられた。そんな事情から、こうして路上にランプを商う人がいたのだ。このときに、「ランプ」の繰り返しは単に抒情の演出を図ったものではないだろう。「ひとつランプを」ともしているのは、商品見本としてであり、また並べた商品を見せるための照明としてである。他人の生活のための道具を、自分の生活のための道具が照らしている。そのことを言っている。そして、秋の夜のつめたい霧だ。ともされたランプの光がぼおっとかすんでいる様子は、夢のように美しい。一瞬、世の中の荒廃や生活苦を忘れさせる夢の灯……。すうっと甘い感傷に流れていく作者の気持ちは、しかし「ランプ」を二度つぶやくことによって、また現実に戻ってくる。この夢幻と現実の響きあいは、けだし絶妙と言うべきか。作者は、短歌から出発した人だと聞く。「霧にともし」と字余りでおさえたところは、短歌の素養から来ているのかもしれぬ。短歌の下七七に来るはずの思いを、字を余らせることで内包させたとも読めるからである。理屈はともかく、従来の俳句とは異質の表現の確かさを感じさせられた。『古暦』(1954)所収。(清水哲男)




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