井の頭自然文化園前にいる焼芋屋の売り声は、幼い女の子の声。悪いけど、美味そうには聞こえない。




2000ソスN11ソスソス15ソスソスソスソス句(前日までの二句を含む)

November 15112000

 星崎の闇を見よとや啼く千鳥

                           松尾芭蕉

人・吉田一穂に、掲句を引用した一文「桃花村」(「俳句」1964年5月号)がある。以下、引用。「俳句は徳川期の過酷な政令の下で、思ひのまま昂ぶる感情を流露し得ない状況から、抑圧の吐け口として、隠秘に、心情を自然物に仮託した表現手段であつたと考へられなくもない。もともと文学とは、きかぬ気のものである。ボナパルトに剣があるなら儂にはペンがあるといふものである。天に告発する性(さが)がある。俳諧は地口、滑稽、軽みなどと風流の民の遊芸に発したとしても、かくれ・きりすたんの異曲で、なかなか風雅どころか、魔神なのである。芭蕉寂滅も荒野を駆けめぐつてのことである。このデモンが『星崎の闇を見よとや啼く千鳥』と存在の根元を問はせたのであらう。自然とのコレスポンダンスとしての人間は、もともと生物たる性と食と語りから脱離できない自然人である。特にわが国土の四季あざやかな風物は、候鳥季魚、山菜野果、直接自然を生産の場としてゐた限りでは、表現的に環境は季の運行と共に支配的表象となる。歳時記はその指針の暦であり、三才図会と等しい百科事典でもあつた」。つづけて詩人は「俳句は季語の規約形式の運用に外ならない」と書き、「生活環境としての自然喪失は、当然、現代感覚の対象たり得ないのみか、俳句の消滅を語るものといわねばならない。(中略)俳人は旧式に未練なく、季約などといふものを屁とも思はぬ現代詩人の混沌振りに参加して、新しい詩を書く方が活動的だ」と断じている。「川端(康成)なんて、どこがいいんだ。アイツは駄目だ」と口角泡を飛ばして語った姿そのままに、すこぶる歯切れがよい。この古くて新しい議論に、俳人諸氏はどう応えるのか。いや、私はどう応えようか。そのあたりが、まだまだ私は「千鳥足」なのだと思った。(清水哲男)


November 14112000

 おでんやがよく出るテレビドラマかな

                           吉屋信子

らぶれた男がひとり静かに飲んでいたり、失恋した女が「元気だしなよ」と慰められていたり……。たしかに「おでんや」は、人生の哀感をさりげなく演出するには恰好の舞台だ。テレビドラマにとっては、俳句の季語のように便利に雰囲気を出せる場所なのだ。しかし、だからといって、お手軽な出しすぎはわずらわしいと作者は鼻白んでいる。さすがは、ドラマ作りに明け暮れている小説家である。目のつけ所が違う。自分だったら、ここで「おでんや」は出さないのになどと、いちいちそういうふうにテレビを見てしまうのだ。なんだか気の毒にも思えてくる視聴者だけれど、誰であれ職業で培った目は、ちょっと外しておくというわけにもいかない。刑事物を見る本物の刑事や、看護婦物を見る本物の看護婦なども、いろいろと気になって仕方がないでしょうね。かくいう私も、編集者物を見かけると、現実とのあまりの違いに笑いだしたくなってくる。本物の「おでんや」の大将だって、掲句のようなドラマを見たら、作者以上に鼻白むはずだ。大人が見るに耐えるテレビドラマが少ないのは、このあたりにも一因があるのだろう。季語の「おでん」をまぜておけば、一応は俳句らしくはなるのだけれど、鼻白む読者が多かったりする「俳句」と同じことである。ちなみに、作句は1960年(昭和35年)の三月。まだ、テレビのある家庭は少なかった。『吉屋信子句集』(1974)所収。(清水哲男)


November 13112000

 落葉降る天に木立はなけれども

                           辻貨物船

葉、しきり。といっても、作者は木立のなかを歩いているわけではない。ごく普通の道に、どこからか風に乗って次から次へと落葉が降ってくるのだ。さながら「天に木立」があるように……。詩人・辻征夫の面目躍如の美しい句である。作者のいる場所は寒そうだが、読者には暖かいものが流れ込んでくる。「なけれども」は「あるように」とも言えるけれど、やはり「なけれども」と口ごもったところで、句が生きた。なんだか、本当に「天に木立」があるような気がしてくるではないか。技巧など弄していないので、それだけ身近に詩人の魂の感じられる一句だ。ちょっと似たような句に、今井聖の「絶巓の宙に湧きくる木の葉かな」がある。「絶巓(ぜってん)」は、山の頂上のこと。切り立った山なのだろう。作者はそれを見上げていて、頂上に湧くように舞い上っている落葉を眺めている。落葉している木立は山の背後にあって、作者の位置からは見えていない。見えていると解してもよいが、見えていないほうが「湧きくる」の意外性が強まる。木立は「なけれども」、その存在は「木の葉」の様子から確認できるととったほうが面白い。切れ味のよい力感があって、素晴らしい出来栄えだ。両者の違いは、ともに木立の不在を言いながら、辻句はいわば「夢の木立」に接近し、今井句は「現実の木立」に近づいているところだ。相違は、詩人と俳人の物の見方の違いから来るのだろうか。井川博年編『貨物船句集』(2000)所収。(清水哲男)




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