鍋物の季節。七味唐辛子が苦手で、シンプルな一味が好きだ。店では必ず「一味はないのか」とうるさい。




2000ソスN11ソスソス17ソスソスソスソス句(前日までの二句を含む)

November 17112000

 綿虫や卓袱台捨てて一家去る

                           守屋明俊

綿虫が飛んでいるのだから、ちょうど今ごろの季節だろう。近所の家が引っ越していった。どんよりと曇った空の下に、ぽつんと卓袱台(ちゃぶだい)が捨てられている。卓袱台に限らないが、他家の所帯道具や生活用品は妙に生々しく感じられる。俎板(まないた)一枚にしても、そうだ。引っ越す側は新居では不要なので捨てていくだけの話だけれど、あからさまにゴミとして見せられる側は、なんだかとても痛ましいような気にさせられる。ああ、あの一家は、この卓袱台を囲んで暮らしていたのか。そう思うと、卓袱台を捨てて去った一家の行為が、冷たい仕打ちのようにすら思えてくる。ここで卓袱台は単なる物ではなく、一家の誰かれの姿と同じように生々しい存在なのだ。そんな人情の機微を弱々しく飛ぶ綿虫の様子につなげて、大袈裟に言えば、掲句は捨てられた卓袱台へのレクイエムのようにも写る。引っ越しはまた整理のチャンスでもあるから、引っ越しの多かった私の家でも、たくさんの物を捨ててきた。いちばん大きな物では、少年時代に、父が家そのものを捨てて去った。粗末なあばら屋だったし、田舎のことで後に住む人もいなかったので、そのまま置き去りにしたのだった。近隣の人にはさぞや生々しく見えたことだろうと、掲句に触れて思ったことである。十数年ぶりに訪れたときに、在の友人に尋ねたら「しばらく立っていたけれど、ある日突然、どおっと一気に崩れ落ちたよ」と話してくれた。『西日家族』(1999)所収。(清水哲男)


November 16112000

 河豚食べて粗悪な鏡の前通る

                           横山房子

くわからないのだけれど、気になる句というのがある。掲句も、その一つだ。この場合に「粗悪な鏡」とはどんな鏡なのだろうかと、ずうっと気になっていた。出来損ないの鏡、姿を写してもよく写らないか、あるいは歪んで写る鏡だろうとは思うけれど、もうひとつ「河豚」との関係がうまく計れないのだった。で、ときどき句を思い出してはあれこれイメージしているうちに、ハッと思いついたのは、これは河豚の店に掛けられている鏡のことではないのかということだった。よく鏡面にジカに赤い筆文字で「祝開店、○○賛江」などと書かれている、アレである。作者は店の座敷で河豚料理を食べ、上機嫌での帰りしなに、ふっと出口あたりにあった「粗悪な鏡」に姿を写してしまった。そこに鏡があれば、自分の姿を確認するのは、なべて女性の本能に近い行為だろう。ちらりとではあるが、確認した自分の姿は歪んでいたのか、ぼおっとしか見えなかったのか、いずれにしても上機嫌とは裏腹なイメージでしかなかった。だから、思わずも発した言葉が「粗悪な鏡」め、だ。せっかくの河豚の御馳走による高級な満足感が、鏡のせいで一瞬のうちに萎えてしまった……。「これが人生ですね」などと、作者は何も読者に押しつけてはいないけれど、なんだか万事うまくいくわけがない人生の姿を、「粗悪」ではない鏡で一瞥してしまったかのような後味のする句ではある。作者は、故・横山白虹夫人。『背後』(1961)所収。(清水哲男)


November 15112000

 星崎の闇を見よとや啼く千鳥

                           松尾芭蕉

人・吉田一穂に、掲句を引用した一文「桃花村」(「俳句」1964年5月号)がある。以下、引用。「俳句は徳川期の過酷な政令の下で、思ひのまま昂ぶる感情を流露し得ない状況から、抑圧の吐け口として、隠秘に、心情を自然物に仮託した表現手段であつたと考へられなくもない。もともと文学とは、きかぬ気のものである。ボナパルトに剣があるなら儂にはペンがあるといふものである。天に告発する性(さが)がある。俳諧は地口、滑稽、軽みなどと風流の民の遊芸に発したとしても、かくれ・きりすたんの異曲で、なかなか風雅どころか、魔神なのである。芭蕉寂滅も荒野を駆けめぐつてのことである。このデモンが『星崎の闇を見よとや啼く千鳥』と存在の根元を問はせたのであらう。自然とのコレスポンダンスとしての人間は、もともと生物たる性と食と語りから脱離できない自然人である。特にわが国土の四季あざやかな風物は、候鳥季魚、山菜野果、直接自然を生産の場としてゐた限りでは、表現的に環境は季の運行と共に支配的表象となる。歳時記はその指針の暦であり、三才図会と等しい百科事典でもあつた」。つづけて詩人は「俳句は季語の規約形式の運用に外ならない」と書き、「生活環境としての自然喪失は、当然、現代感覚の対象たり得ないのみか、俳句の消滅を語るものといわねばならない。(中略)俳人は旧式に未練なく、季約などといふものを屁とも思はぬ現代詩人の混沌振りに参加して、新しい詩を書く方が活動的だ」と断じている。「川端(康成)なんて、どこがいいんだ。アイツは駄目だ」と口角泡を飛ばして語った姿そのままに、すこぶる歯切れがよい。この古くて新しい議論に、俳人諸氏はどう応えるのか。いや、私はどう応えようか。そのあたりが、まだまだ私は「千鳥足」なのだと思った。(清水哲男)




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