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November 22112000

 化けさうな傘かす寺のしぐれかな

                           与謝蕪村

り合いの寺を訪ねたのだろう。辞去しようとすると、折りからの「しぐれ」である。で、傘を借りて帰ることになったが、これがなんとも時代物で、夜中ともなれば「化けさうな」破れ傘だった。この傘一本から、読者は小さな荒れ寺を想起し、蕪村の苦笑を感得するのだ。相手が寺だから、なるほど「化けさうな」の比喩も利いている。「化けさうな傘」を仕方なくさして「しぐれ」のなかを戻る蕪村の姿には、滑稽味もある。言われてみると、たしかに傘には表情がありますね。私の場合、新品以外では、自分の傘に意識することはないけれど、たまに借りると、表情とか雰囲気の違いを意識させられる。女物は無論だが、男物でも、他人の傘にはちょっと緊張感が生まれる。さして歩いている間中、自分のどこかが普段の自分とは違っているような……。「不倶戴天」と言ったりする。傘も一つの立派な「天」なので、他人の天を安直に戴(いただ)いているように感じるからなのかもしれない。ところで「しぐれ(時雨)」の定義。初冬の長雨と誤用する人が案外多いので書いておくと、元来はさっと降ってさっと上がる雨を言った。夏の夕立のように、移動する雨のことだ。曽良が芭蕉の郷里・伊賀で詠んだ句に「なつかしや奈良の隣の一時雨」とあるが、この「一時雨(ひとしぐれ)」という感覚の雨が本意である。蕪村もきっと戻る途中で雨が止み、「化けさうな」傘をたたんでほっとしたにちがいない。(清水哲男)


December 29122001

 蒟蒻を落して跼む年の市

                           飴山 實

語は「年の市」で冬。昔は大晦日まで、新年用の品物を売る市が社寺の境内などに盛んに立ち、買い物客でごったがえした。「押合を見物するや年の市」(河合曽良)。作者は現代の人だから、東京のアメ横のようなところか、あるいは商店街の辻に立つ小市での句だろうか。いずれにしても、混雑のなかでの買い物にはちがいない。注連飾りや盆栽、台所用品から食料品など、実にいろいろな物が売られている。景気のいい売り声に誘われて、あれもこれもと少しずつ買っていくうちに、だんだんと荷物が増えてきて、ついつるりと「蒟蒻(こんにゃく)」を落としてしまった。この場合は、板コンニャクではなく、べちゃっと落ちる糸コンニャクのほうが面白い。しまった。あわてて誰かに踏まれないうちに拾おうとするわけだが、これ以上何かを落とさないように、手元の荷物も慎重に扱わねばならぬ。したがって、ちょっと「跼(かが)」んでから、半ば手探り状態でコンニャクを拾う感じになる。その寸刻の懸命なしぐさは、哀れなような滑稽なような……。些事といえば些事だ。しかし、そんな些事の連続が生活するということであるだろう。さて、押し詰まってきました。今日明日と、類似の体験をする人はきっといるでしょうね。『辛酉小雪』(1981)所収。(清水哲男)


December 10122002

 雪は来でから風きほう空凄し

                           河合曽良

語は「から風(空風)」で冬。句のように、雪や雨をともなわない、乾いた山越しの強い北風のこと。昔から、上州(群馬県)や遠州(静岡県西部)の名物として知られる。こいつにまともに吹かれると、目もなかなか開けていられず、口の中には砂が入ってジャリジャリする。それよりもなによりも、寒さも寒し。身を切られるようである。思わず空を見上げれば、誰でも曽良と同じように「凄し」と感じるだろう。ただ、この「凄し」という措辞に句の命があるのだけれど、昨今では「凄い」がいささか安売り気味なので、私たちの感受性が作者の実感にぴったり重なるかどうかは心もとない。何かにつけて、いまは「凄い」「すげえ」「すんご〜い」が連発されている。元来の「凄い」は、心に強烈な戦慄や衝撃を感じさせる様子をいうのだから、昔の人はめったなことでは「凄い」とは言わなかったはずだ。そんなに、そこらへんに「凄い」と感じることなど転がってはいなかった。その意味からすると、タレントが逆立ちして歩いたくらいで「すんご〜い」と言うのは、いかがなものか。そうした「すんご〜い」を聞いただけで、他人事ながら赤面しそうになる。言葉の意味を軽く使うことを一概に否定するつもりはないけれど、いまどきの「凄い」のあまりの軽さは、それこそ「すごすぎない?」でしょうか。(清水哲男)




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