November 262000
黄落や或る悲しみの受話器置く
平畑静塔
黄落(こうらく)は、イチョウやケヤキなどの木の葉が黄色に染まって落ちること。対するに、「紅葉かつ散る」という長い秋の季語がある。こちらは、紅葉したままの木の葉が落ちることだ。「照紅葉且つ散る岩根みづきけり」(西島麦南)。掲句のポイントは「或る悲しみ」の「或る」だろう。「或る」と口ごもっているのだから、「悲しみ」の中身は、たとえば肉親や親しい人の訃報のように、作者の胸に直接ひびいたものではあるまい。受話器の向こうの人の「悲しみ」なのだ。それを、向こうの人は作者に訴えてきたのだと思う。内容は、聞くほどに切なくなるもので、同情はするのだが、さりとてどのようにも力にはなってあげられそうもないもどかしさ。折しも、窓外の黄落はしきりである。聞いているうちに、降り注ぐ黄色い光りのなかに立っているような哀切で抽象的な感覚に襲われ、その気分のままに受話器を置いた。置いてもなお、気持ちはしばらく現実に戻らない。ここで多分、作者は「ほおっ」と大きなため息をついただろう。黄葉であれ紅葉であれ、木の葉のしきりに散る様子は人を酔わせるところがある。「或る悲しみ」の「或る」は、そんな気分に照応していて、よく利いている。『新俳句歳時記・秋』(1989・河出文庫)所載。(清水哲男)
October 242002
定年やもみじはらはらうらおもて
八木忠栄
季語は「紅葉散る」でもよいけれど、当サイトとしては「紅葉かつ散る」に分類しておきたい。紅葉している木もあれば、散っている木もあるという意味だ。すなわち、定年に達した自分もいるし、もうすぐ定年になる同僚もいるというのが会社というところである。このところ、定年を迎える友人知己が増えてきた。作者も、その一人だ。挨拶状を受け取るたびに、なんだか自分も定年を迎えたような気分になる。そんな年齢になってしまったのだ。サラリーマンを早くに止めてしまった私には、定年者の感慨はもちろん想像してみる他はない。人それぞれではあろうけれど、案外、共通した思いもありそうだと思う。会社組織が似たような構造を持つ以上、そこを離れる者にも似たような感想も生まれるのではあるまいか。掲句は、そういうことを言っているような気がする。すなわち、個人的な感慨はとりあえず別にして、定年者一般の心持ちを美しく散り逝く「もみじ」の光景に託している。作者も「はらはらと」散った葉の一枚にはちがいないけれど、どの葉が自分であるのかはわからない。散り敷いて、「うら」になっている葉もあれば「おもて」のものもある。「うらおもて」などは、なおさらにわからない。しかし、そんなことはどうでもいいのさ。みんな、お互いによく働いたね。なお「はらはらと」散る紅葉を浴びながら、作者は心の内で、そう呼びかけている。個人誌「いちばん寒い場所」(2002年・40号)所載。(清水哲男)
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