貂。霎コ魄主、ェ縺ョ句

December 01122000

 盛り上がり珠となる血や十二月

                           渡辺鮎太

て、十二月。諸事雑事に追われて、ともすれば自分を見失いがちな月。何年前だったか。もうどこの雑誌に書いたのかも忘れてしまったが、ずばり「十二月」というタイトルの詩を書いたことがある。「大掃除をしなければならぬ」という具合に、全行「……しなければならぬ」だけでまとめた。書いているうちに、次から次へと「……しなければならぬ」ことが出てきて、驚きかつ呆れたことを覚えている。安住敦に「一弟子の離婚の沙汰も十二月」があり、「……しなければならぬ」のなかには、他人事もからんできたりする。掲句はそんな当月の日常のなかで、不意に我にかえった一刻をとらえていて見事だ。忙しくしている最中に、うかつにも何か鋭いもので、手かどこかを突いてしまったのだろう。「いけないっ」と見ると、小さな傷口から血が出てきた。見るうちに、血が「盛り上が」ってくる。その盛り上がった様子を、美しい「珠」のようだととらえたとき、作者は我にかえったのだ。かまけていた眼前の雑事などは一瞬忘れてしまい、自分には生身の身体があることを認識したのである。忙中に美しき血珠あり。小さな血珠に、大きな十二月を反射させて絶妙だ。よし。この十二月は、この句を思い出しながら乗りきることにしよう。「俳句研究」(2000年12月号)所載。(清水哲男)


September 0692007

 いま倒れれば鶏頭の中に顔

                           渡辺鮎太

っと固まって咲く鶏頭は、はかなげな秋の花と違いどこか不気味な面持ちをしている。もともとは熱帯アジア原産で、古く日本へ渡来したと辞書にあるから長い間観賞用の花として愛好されてきたのだろう。この花を気持ち悪く思う私にはどこが良くて花壇に植えられているのかさっぱりわからない。「いま倒れれば」といきなり始まる唐突な出だしは前のめりに倒れそうになった瞬間心をよぎった言葉なのか、それとも起こりそうもない状態を仮定しての言葉なのか。いずれにしても「ば」のあとに続く事柄が、「鶏頭の中に顔」で切れているヘンさ加減が鶏頭嫌いの私にとってはとても気になる。まっすぐ立っている鶏頭を顔で押し分けながら倒れこんでゆくシーンは柔らかそうなコスモスなどに倒れこむより現実的でちょっと毒を含んでいるように思える。鶏頭の中に顔があるシュールで大胆な構図も面白いが、実際に自分の顔が倒れこんでゆく場面を想像してみると、たくましい茎は直立したまま曲がりそうにないし、ばちばち顔に当たる葉も痛そうだ。鶏頭を詠むのに花から離れて詠むのではなく、自分の身体を倒してみる。しかも物が当たるのに一番避けたい顔を持ってきたことで句に生々しさが生まれ、鶏頭の異様な感触を際立たせたように思う。『十一月』(1998)所収。(三宅やよい)




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