この一年間に頂いた名刺の整理。畏友・草森紳一は、これまでの名刺を全部捨てないで保管していると。




2000ソスN12ソスソス4ソスソスソスソス句(前日までの二句を含む)

December 04122000

 ふと羨し日記買ひ去る少年よ

                           松本たかし

店でか、文房具店でか。来年度の日記帳が、ずらりと山積みに並んでいる。あれこれ手に取って思案していると、隣りにいた少年がさっと一冊を買って帰っていった。自分のように、ぐずぐずと迷わない。「買ひ去る」は、そんな決断の早さを強調した表現だろう。「ふと羨(とも)し」は、即決できる少年の若さに対してであると同時に、その少年の日記帳に書きつけられるであろう若い夢や希望に対しての思いである。おそらく、ここには自分自身が少年だったころへの感傷があり、伴って往時茫々との感慨もある。「オレも、あんなふうなコドモだったな……」と、「少年よ」には、みずからの「少年時代」への呼びかけの念がこもっている。もとより、ほんの一瞬の思いにすぎないし、すぐに少年のことなどは忘れてしまう。だが、このように片々たる些事をスケッチして、読者にさまざまなイメージを想起させるのも俳句の得意芸だ。読者の一人として、私も私の「少年」に呼びかけたくなった。熱心に日記をつけたのは、小学六年から高校一年くらいまで。まさに少年時代だったわけだが、読み返してみると、内面的なことはほとんど書かれていない。半分くらいは、情けないことに野球と漫画と投稿関連の記述だ。だから、本文よりも、金銭出納欄のほうが面白い。鉛筆や消しゴムの値段をはじめバス代や映画代など、こまかく書いてある。なかに「コロッケ一個」などとある。買い食いだ。ああ、遠き日の我が愛しき「少年」よ。『新日本大歳時記・冬』(1999・講談社)所載。(清水哲男)


December 03122000

 寒風や砂を流るる砂の紋

                           石田勝彦

影もない冬の砂丘だ。寒風が吹き荒れて、表面にできた紋様が次から次へと消されては、また現われる。その様子を「砂を流るる砂の紋」と動的に言い当てたデッサン力には、お見事と言うしかない。句のなかで、風紋はしばしも休まずに千変万化し、永遠に流れつづけるのである。美しくも荒涼たる世界の永遠性を描いて、完璧だ。こういう句を突きだされると、グウの音も出ない。「まいった」と言うしかない。俳句文芸の一到達点を示す作品だろう。……と絶賛しつつも、一方で私などには不満に思うところもある。不満ではなくて、不安と言うほうが適当かもしれない。もしかしたら、このあたりが俳句の限界かもしれないと思えるからだ。俳句の壁は、ここらへんに立ちはだかっているのではないのかと。「それを言っちゃあオシマイよ」みたいな印象が、どうしても残ってしまう。そんな印象を受けるのは、掲句に作者の息遣いもなければ、影もないからだろう。句の主体は、まるで句そのものであるかのようだ。もっと言えば、この句の主体は空無ではないのか。私の理想とする俳句主体は、「個に発して個にとどまらず、個にとどまらずして再び個に帰る」という平凡なところにあるので、空無的主体は理想から外れてくる。そこに「人間」がいてくれないと、不安になり不満を覚える。このときに作者が、「砂の紋」を「砂」と「砂」とを重ねる技巧から脱して、たとえば「風の紋」と野暮を承知で詠んだとすれば、たちまち作者の息遣いが聞こえてこないだろうか。人が登場するのではないか。舌足らずになったが、いま、なんとなくこんなことを考えながら、俳句を楽しんでいるので……。『秋興』(1999)所収。(清水哲男)


December 02122000

 咳の子のなぞなぞあそびきりもなや

                           中村汀女

しそうに咳をしながらも、いつまでも「なぞなぞあそび」に興ずる子ども。気づかう母親は「もうそろそろ寝なさい」と言うが、意に介さず「きりも」なく「あそび」をつづけたがる。つきあう母としては心配でもあり、たいがいうんざりでもある。私は小児喘息だった(死にかけたことがあるそうだ)ので、少しは覚えがある。「ぜーぜー」と粗い息を吐きながら、母にあれこれと他愛のない「問題」を出しては困らせた。しかし、咳でもそうだけれど、喘息の粗い息も、何かに熱中してしまうと、傍目で見るほど苦しくは感じられないものだ。慣れのせいだろう。が、もう一つには、子どもには明日のことなど考えなくてもよいという特権がある。だから、いくら咳が出ても、精神的な負担にはならない。いよいよ苦しくなれば、ぺたんと寝てしまえばよいのである。同じ作者に「風邪薬服して明日をたのみけり」があり、このように大人は「明日を」たのまなければならない。この差は、大きい。「なぞなぞ」といえば、小学生のときに「朝は四本足、昼は二本足、夜は三本足。なあんだ?」と、友だちに聞かれた。答えは「人間の一生」というものだったが、そうすると、いまの私は夕方くらいか。夕方くらいだと、まだ「明日を」たのむ気持ちも残っている。羨ましいなあ、ちっちゃな子は。「咳」「風邪」ともに、冬の季語。読者諸兄姉におかれましては、お風邪など召しませんように。『女流俳句集成』(1999)所載。(清水哲男)




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