めずらしくヒマ。何をしようか。何もしないうちに終わりそうだ。何もせずに、贅沢な一日にしよう。




2000ソスN12ソスソス10ソスソスソスソス句(前日までの二句を含む)

December 10122000

 第九歌ふむかし音楽喫茶あり

                           大石悦子

談社が昨年から今年にかけて出した『新日本大歳時記』は、いくつかの新しい季語を採り上げている。黛まどかの「ヘップバーン」が提唱している「新季語」からも採用されたと、ご本人から聞いた。「第九(ベートーヴェンの第九交響曲)」も、その新しい季語の一つだ。「第九」が日本で十二月に演奏されるきっかけは、その昔に上野の音楽学校(現・芸大)からはじまったと仄聞するが、たしかに「第九」には、この国では師走の香りがする。ただし、ベートーヴェンがはじめて「第九」の棒を振ったのは、五月のウィーンでだった。中身からして、初夏の雰囲気にこそふさわしい曲なのだ。掲句は同書よりの引用であるが、一読平凡な句ながら、私などの世代には郷愁を誘われるという一点において、捨てがたい。歌っているうちに、作者は、この曲を覚えたのが「音楽喫茶(名曲喫茶)」だったことを思い出している。あのころは、高価なレコード・プレーヤーを買うことができずに、この曲を聞きたい一心で「音楽喫茶」に通っていた……。貧しさとひたむきな純情と、歌いながら当時のみずからの環境や社会のことを回想している。音楽はもとより、他のどんな表現であろうとも、それをどこで摂取したのか、いつごろだったのかと、忘れられない表現には必ずその人が享受した時と所と環境とがついてまわる。その意味で、掲句は「喜びの歌」の個人的にして同世代的な、静かなる読み替えにもなっている。(清水哲男)


December 09122000

 遅参なき忘年会の始まれり

                           前田普羅

日あたりから、忘年会ありという読者も多いだろう。暮れの繁忙期を前に、早いうちにすませておこうというわけだ。放送業界では、押し詰まってくると忘年会どころではなくなる。「疑似新春番組」作りに追われてしまう。忘年会の良さは、結婚祝いやら厄落としやらのような集会理由が何もないところだ。一応は「一年の無事を祝し……」などと言ったりするが、そんなことは誰も真剣に思っちゃいない。無目的に集まって、飲んだり食ったりするだけ。考えてみれば、こんな集いはめったにあるものではない。だから、逆に嫌う人も出てくるけれど、おおかたの人の気分はなんとなく浮き浮きしている。無目的は、束の間にせよ、芭蕉に「半日は神を友にや年忘れ」があるように、世間のあれこれを忘れさせてくれる。掲句は、そのなんとなく浮き浮きした気分を詠んだ句だ。みんな浮き浮きしているから、他の会合とはちがって「遅参(ちさん)」もない。「遅参」のないことが、また嬉しくなる。何でもない句のようだが、忘年会のはじまるときの、いわば「気合い」を描いて妙である。ところで、急に別のことを思い出した。田舎にいたころは、学校に遅れることを「遅参」と言っていた。「遅刻」とは、言わなかった。たしか「通知表」にも「遅参」とあったような……。「刻」を相手の「遅刻」よりも、「参(集)」を相手の「遅参」のほうに、人間臭さを感じる。さて、今夜は二つの忘年会が重なっている。必然的に、片方は「遅参」となる。『定本普羅句集』(1972)所収。(清水哲男)


December 08122000

 峠に見冬の日返しゐし壁ぞ

                           深見けん二

味だけれど、不思議な印象を与えてくれる句だ。季語「冬の日」は冬の一日の意でも使うが、冬の太陽を指す場合が多い。峠を越えて、作者は山里に下りてきた。土蔵だろうか。白い壁の建物の前を通りかかって、はっと気がついた。ああ、「あれ」は「これ」だったのか。きっと、そうにちがいない。「これ」は眼前の白壁で、「あれ」は峠から遠望した建物の白壁である。峠から見た山里の風景は寒々としていたが、なかで弱々しい太陽の光りを反射させている小さな「壁」だけが、健気にも元気な感じで一瞬目に焼きつけられた。もちろん、歩いているうちに、そんなことは失念してしまっていたのだが、いま「壁」の傍らを通りかかって、不意に思い出したというわけである。カメラなら、峠からすっと簡単にズームアップできるるところを、人は時間をかけなければ果たせない。その時間性が詠まれているので、まずは不思議な印象を受けるのだろう。どこかの場所で、そこにまつわる過去を思い出したり偲んだりする句はヤマほどある。しかし、掲句のように、過去とは言っても「つい、さきほど」の過去を思い出した句は少ない。たいていの日常的な「つい、さきほど」には、記述するに足ると思える何の意味も価値もないからだ。そのあたりは百も承知で、作者は詠んでいる。そこがまた不思議な味わいにつながっており、私などには「ああ、これがプロの腕前なんだなあ」と感心させられてしまう。単に「あれ」が「これ」だったのだと言っているにすぎないが、なんだか読者もいっしょに嬉しく思える句の不思議。『雪の花』(1977)所収。(清水哲男)




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