街はいつもと違う混雑ぶり。ボーナスが出たんだろうな。ボーナスに無縁となってから、もう三十数年。




2000ソスN12ソスソス11ソスソスソスソス句(前日までの二句を含む)

December 11122000

 鍵穴に蒲団膨るゝばかりかな

                           石塚友二

語は「蒲団」で、冬。明らかな覗き行為である。作者は鍵穴に目を押し当てて、部屋の中を覗いている。すると、部屋の主はまだ寝ているらしく、こんもりと膨らんだ蒲団が見えるだけだった。何故覗いているのかはわからないが、描かれた情景はクリアーだ。しかし、これだけだとストーカー行為みたいに思われてしまう。そこで、前書が必要となる。曰く「十二月十七日雨過山房主人を見舞ふ」。見舞いの相手は、生涯の師であった横光利一だ。後年作者は「横光利一は私の神であった」と書くことになるが、畏敬する人を見舞うに際しての細心の配慮から生まれた覗きだったのだ。推定だが、敗戦の翌年の師走のことのようである。ちなみに、横光利一の命日は1947年(昭和二十二年)12月30日。鍵穴から、人を見舞う。珍しい見舞い方のようにも思えるが、当時の鍵穴は大きかったので、ドア・チャイムの設備がなければ、案外こうしたことは一般的に行われていたのではあるまいか。そして作者には、この覗きのときをもって、師との今生の訣れとなったという。「ばかりかな」に、万感の思いがこもっている。石田波郷は、作者の根底にあるものとして「庶民道徳としての倫理観」を指摘しており、掲句のような振る舞いに、それは如実に表れているだろう。まだ「師」という存在が、文学の世界に限らず、それこそ庶民の間に具体的に自然に実感されていたころにして成り立った句でもある。『光塵』(1954)所収。(清水哲男)


December 10122000

 第九歌ふむかし音楽喫茶あり

                           大石悦子

談社が昨年から今年にかけて出した『新日本大歳時記』は、いくつかの新しい季語を採り上げている。黛まどかの「ヘップバーン」が提唱している「新季語」からも採用されたと、ご本人から聞いた。「第九(ベートーヴェンの第九交響曲)」も、その新しい季語の一つだ。「第九」が日本で十二月に演奏されるきっかけは、その昔に上野の音楽学校(現・芸大)からはじまったと仄聞するが、たしかに「第九」には、この国では師走の香りがする。ただし、ベートーヴェンがはじめて「第九」の棒を振ったのは、五月のウィーンでだった。中身からして、初夏の雰囲気にこそふさわしい曲なのだ。掲句は同書よりの引用であるが、一読平凡な句ながら、私などの世代には郷愁を誘われるという一点において、捨てがたい。歌っているうちに、作者は、この曲を覚えたのが「音楽喫茶(名曲喫茶)」だったことを思い出している。あのころは、高価なレコード・プレーヤーを買うことができずに、この曲を聞きたい一心で「音楽喫茶」に通っていた……。貧しさとひたむきな純情と、歌いながら当時のみずからの環境や社会のことを回想している。音楽はもとより、他のどんな表現であろうとも、それをどこで摂取したのか、いつごろだったのかと、忘れられない表現には必ずその人が享受した時と所と環境とがついてまわる。その意味で、掲句は「喜びの歌」の個人的にして同世代的な、静かなる読み替えにもなっている。(清水哲男)


December 09122000

 遅参なき忘年会の始まれり

                           前田普羅

日あたりから、忘年会ありという読者も多いだろう。暮れの繁忙期を前に、早いうちにすませておこうというわけだ。放送業界では、押し詰まってくると忘年会どころではなくなる。「疑似新春番組」作りに追われてしまう。忘年会の良さは、結婚祝いやら厄落としやらのような集会理由が何もないところだ。一応は「一年の無事を祝し……」などと言ったりするが、そんなことは誰も真剣に思っちゃいない。無目的に集まって、飲んだり食ったりするだけ。考えてみれば、こんな集いはめったにあるものではない。だから、逆に嫌う人も出てくるけれど、おおかたの人の気分はなんとなく浮き浮きしている。無目的は、束の間にせよ、芭蕉に「半日は神を友にや年忘れ」があるように、世間のあれこれを忘れさせてくれる。掲句は、そのなんとなく浮き浮きした気分を詠んだ句だ。みんな浮き浮きしているから、他の会合とはちがって「遅参(ちさん)」もない。「遅参」のないことが、また嬉しくなる。何でもない句のようだが、忘年会のはじまるときの、いわば「気合い」を描いて妙である。ところで、急に別のことを思い出した。田舎にいたころは、学校に遅れることを「遅参」と言っていた。「遅刻」とは、言わなかった。たしか「通知表」にも「遅参」とあったような……。「刻」を相手の「遅刻」よりも、「参(集)」を相手の「遅参」のほうに、人間臭さを感じる。さて、今夜は二つの忘年会が重なっている。必然的に、片方は「遅参」となる。『定本普羅句集』(1972)所収。(清水哲男)




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