「ぼったくり」商法摘発。昔、退職金全てを持ってわざと引っ掛かりに行った。ところが、無視された。




2000ソスN12ソスソス12ソスソスソスソス句(前日までの二句を含む)

December 12122000

 生徒らに知られたくなし負真綿

                           森田 峠

句を読んでいると、いまでは失われてしまった風習やファッション、生活用品などに出会って、しばし懐しさに浸るということが起きる。防寒衣である「負真綿(おいまわた)」も、その一つだ。単に真綿を薄く伸ばして下着と上着の間の背の部分に貼り付けるだけのものだが、これが実に暖かい。子供のころに、体験した。主として年寄りが愛用した関係上、ファッション的に言えば「ダサい」というわけで、作者もそこに気を使っている。教師も、大変だ。気づかれぬように、きっと真綿を可能なかぎりに薄く伸ばすのに努力したにちがいない。そんなことも思われて、微苦笑を誘われる。ひところ、「ステテコ」をはく男はダサいなんてことも言われましたね。いまでも、そうなのかしらん(笑)。昔からダンディズムを貫くには、やせ我慢を必要とした。そして、ダンディズムにこだわっても馬鹿みたいに思える年齢になってくると、やせ我慢の壁が一挙に崩れ落ちる。男も女も、まさに崩落、墜落状態。寒ければ着膨れし、暑ければ委細構わず裸になる。「負真綿」なんぞよりも、もっと凄いのが「背布団(せなぶとん)」だった。小さな蒲団に紐をつけて背負ったのだから、ファッション性もへったくれもあるものかという代物だ。「腰蒲団」というのもあったらしいが、こちらは女性用だろう。もっとも、昔はどこにいても現在よりずっと寒かった。そういうことだから、「ダサさ」加減も少々割り引いて読む必要はある。『避暑散歩』(1973)所収。(清水哲男)


December 11122000

 鍵穴に蒲団膨るゝばかりかな

                           石塚友二

語は「蒲団」で、冬。明らかな覗き行為である。作者は鍵穴に目を押し当てて、部屋の中を覗いている。すると、部屋の主はまだ寝ているらしく、こんもりと膨らんだ蒲団が見えるだけだった。何故覗いているのかはわからないが、描かれた情景はクリアーだ。しかし、これだけだとストーカー行為みたいに思われてしまう。そこで、前書が必要となる。曰く「十二月十七日雨過山房主人を見舞ふ」。見舞いの相手は、生涯の師であった横光利一だ。後年作者は「横光利一は私の神であった」と書くことになるが、畏敬する人を見舞うに際しての細心の配慮から生まれた覗きだったのだ。推定だが、敗戦の翌年の師走のことのようである。ちなみに、横光利一の命日は1947年(昭和二十二年)12月30日。鍵穴から、人を見舞う。珍しい見舞い方のようにも思えるが、当時の鍵穴は大きかったので、ドア・チャイムの設備がなければ、案外こうしたことは一般的に行われていたのではあるまいか。そして作者には、この覗きのときをもって、師との今生の訣れとなったという。「ばかりかな」に、万感の思いがこもっている。石田波郷は、作者の根底にあるものとして「庶民道徳としての倫理観」を指摘しており、掲句のような振る舞いに、それは如実に表れているだろう。まだ「師」という存在が、文学の世界に限らず、それこそ庶民の間に具体的に自然に実感されていたころにして成り立った句でもある。『光塵』(1954)所収。(清水哲男)


December 10122000

 第九歌ふむかし音楽喫茶あり

                           大石悦子

談社が昨年から今年にかけて出した『新日本大歳時記』は、いくつかの新しい季語を採り上げている。黛まどかの「ヘップバーン」が提唱している「新季語」からも採用されたと、ご本人から聞いた。「第九(ベートーヴェンの第九交響曲)」も、その新しい季語の一つだ。「第九」が日本で十二月に演奏されるきっかけは、その昔に上野の音楽学校(現・芸大)からはじまったと仄聞するが、たしかに「第九」には、この国では師走の香りがする。ただし、ベートーヴェンがはじめて「第九」の棒を振ったのは、五月のウィーンでだった。中身からして、初夏の雰囲気にこそふさわしい曲なのだ。掲句は同書よりの引用であるが、一読平凡な句ながら、私などの世代には郷愁を誘われるという一点において、捨てがたい。歌っているうちに、作者は、この曲を覚えたのが「音楽喫茶(名曲喫茶)」だったことを思い出している。あのころは、高価なレコード・プレーヤーを買うことができずに、この曲を聞きたい一心で「音楽喫茶」に通っていた……。貧しさとひたむきな純情と、歌いながら当時のみずからの環境や社会のことを回想している。音楽はもとより、他のどんな表現であろうとも、それをどこで摂取したのか、いつごろだったのかと、忘れられない表現には必ずその人が享受した時と所と環境とがついてまわる。その意味で、掲句は「喜びの歌」の個人的にして同世代的な、静かなる読み替えにもなっている。(清水哲男)




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