♪とんぼ返りで今年も暮れる……。サーカスみたいな生活が、まだ続きそう。いい加減、疲れます。




2000ソスN12ソスソス20ソスソスソスソス句(前日までの二句を含む)

December 20122000

 聖樹にて星より高き鐘があり

                           二川のぼる

々「にて」という措辞に理屈っぽさが臭うのは惜しいが、言われてみれば、その通りだ。たしかにクリスマス・ツリーには、現実とは違う感覚の世界がある。句の「星」の上に「鐘」がある位置関係もそうだし、「星」よりも「鐘」やサンタクロースの人形のほうが大きかったりするのもそうだ。でも、作者はそういうことに今更のように気がついている。句を読んで、私も今更のように「なるほどね」と思った。気がついて、しかし作者は、この位置関係を現実のものとして感受している。そこが非凡。数々の星たちの上方に、巨大な鐘が浮かんでいて、それが高らかな音を発しているのだ。「聖樹」の小ささを越えて、はるかに壮大な宇宙を眺めている思い。何事につけ、このような目や耳を持つことができたら、人生は楽しくも豊かに感じられるでしょうね。ところでクリスマスツリーを見るたびに、私は酉の市の熊手のデコレーションを想起してしまう。あの熊手にも、現実の遠近感など無視した飾り付けがしてある。千両箱や金の俵よりも、ずっと「おかめ」の顔のほうが大きかったりする。洋の東西を問わず、現実の間尺に合わない関係を並列することで、希望や明るさを見いだしてきたということだろうか。ただ熊手には「現世利益」の願望がこめられていて、「聖樹」の神性とは大きく異なる。「聖樹」に近いのは門松であり、しかし、門松には何も吊るしたりはしない。このあたりが、文化文明の差なのだろう。そう考えると、ますます「聖樹」を見る目が変わってくる。『福音歳時記』(1993)所載。(清水哲男)


December 19122000

 床屋出てさてこれからの師走かな

                           辻貨物船

し詰まってくると床屋も混みあうので、正月にむさくるしい感じにならない程度に、見計らって早めに床屋に行く。いまは男も美容院に行く時代なので、いささか乱立気味でもあり、こういう思案もなくなったかもしれない。私はもう、三十年も床屋とは無縁だ。家内の世話になっているので、床屋事情には、すっかりうとくなっている。昔は、町内に床屋の数は少なかった(いまでも「床屋(理髪店)」と限定すれば、同じことだろう)。したがって、どうしても頃合いを計らざるを得なかった。下手をすると、髪ぼうぼうのままに、正月を迎える羽目になる。作者は首尾よく、計算通りに散髪を完了し、すがすがしい気持ちで床屋を出た。すがすがしい気分だから、師走の町を歩きながら「さてこれから」だなと、気合いも入る。「さてこれから」何をしようか、やるべきことは山積しているような、していないような。とにかく「さてこれから」なのだ。この「さて」という気持ちが、師走特有の庶民の気分を代表している。師走だからといって、べつにジタバタしなくてもよいようなものだが、「とにかく」そう思い決めることで年の瀬気分を味わいたいというのが、作者のような下町っ子の心意気である。「師走」も「正月」も、ひとりで迎えるのではない。町内みんなで迎えてこそ、意味がある。だから、ちゃんと床屋にも行く。そういうことだ。「さて」が、実に巧く利いている。年が明ければ、貨物船(辻征夫)逝って一年。辻よ、そっちにも床屋はあるか。あれば、そろそろ行かなきゃね。そこで「さて」、床屋を出た君は何をするのだろう。『貨物船句集』(書肆山田・2001年1月刊行予定)所収。(清水哲男)


December 18122000

 流れ行く大根の葉の早さかな

                           高浜虚子

れぞ、俳句。中学校の教室で、そう習った。習ったとき、我が家は生活用水として近所の小川を使っていたので、実感として理解はできた。が、一方ではあまりにも当たり前すぎて、句のよさはわからなかった。よさは、流れていく大根の葉だけを詠むことで、周辺の情景を彷彿させるところだろう。昭和三年(1928)の九品仏吟行で得た句というが、このような情景はどこかの地に特有なものではなく、全国的に普通に見られた。すなわち、往時の多くの日本人には、思い当たる情景だった。どのような表現でもそうだけれど、とくに短い俳句では、このように普遍性の高い生活環境や生活条件に下駄をあずけざるをえないところがある。言外の意味を、普遍性ないしは常識性に依存するのだ。そんなことを考えると、俳句の寿命は短い。世の中が変わると、昔の句は滅びてしまう。でも、私はそれでよしと思う。永遠の名作を望むよりも、束の間の命を盛んに燃やしたほうが、潔くてよろしい。おそらく、現代の若者には、この句の味は本当にはわかるまい。あまりにも、日常とは遠い世界の「大根の葉」であり、その「流れ行く早さ」であるからだ。あまりにも、当たり前の事象ではないからだ。まだ教科書に載っているかどうかは知らないが、載っていたとしても、教師には教えようがないだろう。俳句は、読み捨て。教えるとすれば、そういうことしかない。揚句に共感できる人も、みな同じ思いだろう。くどいようだが、それでよいのである。この句は、もはや「これぞ、俳句」のサンプルではなくなりかけてきたということ。(清水哲男)




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