同じマンションの如月小春さんが亡くなった。先日玄関で会ったとき元気がなかったような…。悼。




2000ソスN12ソスソス21ソスソスソスソス句(前日までの二句を含む)

December 21122000

 山国の虚空日わたる冬至かな

                           飯田蛇笏

至。太陽の高度がもっとも低く、一年中でいちばん昼の時間が短い。昔から「冬至冬なか冬はじめ」といって、暦的には冬の真ん中ではあるが、これから本格的に冬の寒さがはじまる。さて、「虚空」だ。何もない空。山国の冬の空は、いかにも「虚空」という感じがする。何もない空間、つまりは何ものにも侵食されていない空間。そんな感じを受けるのは、下界の自然に活気がなくなっているからだろう。全山ほとんど枯れ果てて、眠るがごとし(「山眠る」は冬の季語)。空は鏡ではないけれど、心理的には地上の活力を反映しているように思える。たとえば入道雲が湧き出る夏の空に活力を感じるのは、地上の季節の盛りを感じている人の心があるからである。揚句では「日」が見えているのだから、もちろん晴れているか、雲は出ていても薄曇り程度。その何もない空を、赤い日が低く静かにわたっていく。「ああ、冬至だな」という作者の感慨を写して、そのように空があり、そのように日のわたりがある。すなわち、作者の心象風景が、まさしく眼前に展開されているということである。蛇笏の句の多くが正しい骨格を持っている秘密は、このように地上の自然にまず自我を溶かし込み、そこからはじめて対象に向かって句を立ち上げる作句姿勢にありそうだ。「虚空」を詠む以前に、おのれ自身を「虚」にしている。いわば人事の異臭がないわけで、それだけ主体不明とも言えるが、主体不明こそ俳句詩形の他の詩形にはない面白さだから、蛇笏俳句は、その一つの頂上を極めた作品として心地よい。読者諸兄姉よ、きょうの空は、そして日は、あなたの心にどんなふうに写っていますか。『新日本大歳時記・冬』(1999・講談社)所載。(清水哲男)


December 20122000

 聖樹にて星より高き鐘があり

                           二川のぼる

々「にて」という措辞に理屈っぽさが臭うのは惜しいが、言われてみれば、その通りだ。たしかにクリスマス・ツリーには、現実とは違う感覚の世界がある。句の「星」の上に「鐘」がある位置関係もそうだし、「星」よりも「鐘」やサンタクロースの人形のほうが大きかったりするのもそうだ。でも、作者はそういうことに今更のように気がついている。句を読んで、私も今更のように「なるほどね」と思った。気がついて、しかし作者は、この位置関係を現実のものとして感受している。そこが非凡。数々の星たちの上方に、巨大な鐘が浮かんでいて、それが高らかな音を発しているのだ。「聖樹」の小ささを越えて、はるかに壮大な宇宙を眺めている思い。何事につけ、このような目や耳を持つことができたら、人生は楽しくも豊かに感じられるでしょうね。ところでクリスマスツリーを見るたびに、私は酉の市の熊手のデコレーションを想起してしまう。あの熊手にも、現実の遠近感など無視した飾り付けがしてある。千両箱や金の俵よりも、ずっと「おかめ」の顔のほうが大きかったりする。洋の東西を問わず、現実の間尺に合わない関係を並列することで、希望や明るさを見いだしてきたということだろうか。ただ熊手には「現世利益」の願望がこめられていて、「聖樹」の神性とは大きく異なる。「聖樹」に近いのは門松であり、しかし、門松には何も吊るしたりはしない。このあたりが、文化文明の差なのだろう。そう考えると、ますます「聖樹」を見る目が変わってくる。『福音歳時記』(1993)所載。(清水哲男)


December 19122000

 床屋出てさてこれからの師走かな

                           辻貨物船

し詰まってくると床屋も混みあうので、正月にむさくるしい感じにならない程度に、見計らって早めに床屋に行く。いまは男も美容院に行く時代なので、いささか乱立気味でもあり、こういう思案もなくなったかもしれない。私はもう、三十年も床屋とは無縁だ。家内の世話になっているので、床屋事情には、すっかりうとくなっている。昔は、町内に床屋の数は少なかった(いまでも「床屋(理髪店)」と限定すれば、同じことだろう)。したがって、どうしても頃合いを計らざるを得なかった。下手をすると、髪ぼうぼうのままに、正月を迎える羽目になる。作者は首尾よく、計算通りに散髪を完了し、すがすがしい気持ちで床屋を出た。すがすがしい気分だから、師走の町を歩きながら「さてこれから」だなと、気合いも入る。「さてこれから」何をしようか、やるべきことは山積しているような、していないような。とにかく「さてこれから」なのだ。この「さて」という気持ちが、師走特有の庶民の気分を代表している。師走だからといって、べつにジタバタしなくてもよいようなものだが、「とにかく」そう思い決めることで年の瀬気分を味わいたいというのが、作者のような下町っ子の心意気である。「師走」も「正月」も、ひとりで迎えるのではない。町内みんなで迎えてこそ、意味がある。だから、ちゃんと床屋にも行く。そういうことだ。「さて」が、実に巧く利いている。年が明ければ、貨物船(辻征夫)逝って一年。辻よ、そっちにも床屋はあるか。あれば、そろそろ行かなきゃね。そこで「さて」、床屋を出た君は何をするのだろう。『貨物船句集』(書肆山田・2001年1月刊行予定)所収。(清水哲男)




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