やったぞ。スケボウ、スーちゃん、キヨトさん、みんな21世紀まで生きられたんだ。おめでとう。




2001ソスN1ソスソス1ソスソスソスソス句(前日までの二句を含む)

January 0112001

 二十世紀なり列国に御慶申す也

                           尾崎紅葉

ょうど百年前(明治34年)の元日の句。紅葉33歳。俳句で「列国」に挨拶を送るところなど、往時の若き明治人の気概のありようがうかがえる。意気軒高とは、このことだ。「讀賣新聞」で有名な『金色夜叉』の筆を起こしたのが、作句の三年前。結局未完に終わっているが、金の力で世間を牛耳ろうとした主人公の考え方は、そのまま明治帝国主義の目指した道でもあった。「列国」の一つが愛する女を奪った富山唯継だとすれば、復讐の鬼と化す間寛一は、さしずめ明治国家だろう。こんな言い方もあながち冗談ではないなと、揚句をはじめて読んだときに思った。「列国」という表現そのものが、すでに「制覇」の意識を内包している。紅葉が国家主義者であったとは言わないが、明治の知識人の多くが、無意識にもせよ、いわば国家意識高揚の一翼を担っていたとは言ってもよい気がする。国家の威信が感覚的にも我が身に乗り移っていなければ、こんなことは言えるはずもない。その意味で、大衆性を持った紅葉文学は、社会的に役に立つそれなのであった。以来、百年。「列国」も死語同然になり、どんな文学も社会の実際の役には立たなくなった。二十一世紀の今日元日に目覚めて、揚句のごとき心境になる日本人は、おそらく一人もいないだろう。たった百年のうちに、日本も世界も大きく変わった。これからも、どんどん変化していくだろう。変わりつつ、否応なく国家や国家意識などは解体されていくにちがいない。新世紀に大きな見どころがあるとすれば、このあたりではないだろうか。私たちには、まだ揚句の言わんとすることはわかる。しかし、あと百年もすればわからなくなること必定だろう。『俳句の本』(2000・朝日出版社)所載。(清水哲男)


December 31122000

 今思へば皆遠火事のごとくなり

                           能村登四郎

語は「火事」で冬。本年の掉尾を飾る句にしては寂し過ぎるが、あえて選んだ。といって、いまの私が作者の心境に至っているわけではない。新年早々に辻征夫と別れ、師走に加藤温子と別れた。仲良しの詩の仲間を、一挙に二人も奪われた。それもまだ十分に若い命を、だ。めったに泣かない私が、ひとりかくれて声を押し殺して泣いた。「ばかやろう」と大声で叫びたい気持ちだった。だから「遠火事」どころではなく、まだ心にはぶすぶすとくすぶるものがある。まだ、生々しい体験として生きている。揚句がそんな私に寂しいのは、やがていつの日か、今年起きたことも、おそらくは「遠火事」のように思い出されることになるだろうからだ。作者は、このときに七十代の後半である。よほどの体験でも、時の経つにつれて実感が失われていく。どうにもならぬ、人の常だ。戦地で地獄を見てきた人すらも、どこか「遠火事」のように語るようになってきた。私にしても、たとえば戦後の飢えの体験などは、どちらかといえば「遠火事」に近くなってきたろうか。あれほど苦しかったのに、たまのご馳走であった一個の生卵を弟と分ける際にいつも喧嘩になったのに、そういうことも忘れかけている。ひるがえって作者の心境に思いを馳せると、私などよりも、もっともっと寂しいだろうと思う。体験した喜怒哀楽の何もかもが「遠火事」のようにしか浮かんでこない心には、ただ荒涼たる風が吹きすぎているのみだろうからである。今年も暮れる。来る年が、みなさまにとってよい年でありますように。『菊塵』(1988)所収。(清水哲男)


December 30122000

 麹町あたりの落葉所在なし

                           藤田湘子

日の麹町(こうじまち)風景だと思う。もっと言えば、年末年始の麹町ではあるまいか。東京都千代田区麹町。麹町は皇居の半蔵門側に位置し、国会議事堂にも近い。英国大使館や参議院議員宿舎があり、最近はオフィス街としても活気があるが、元来は静かな高級住宅地と言ってよいだろう。仕事で十年近く、半蔵門前のラジオ局(TOKYO-FM)に通っていたので、雰囲気はよく知っている。休日になると、街は一挙にガランとしてしまう。とりわけて年末年始には、昼間でも人通りが途絶える。タクシーも避けて通るくらいで、天皇が歩いていても気がつかれる心配はないほどだ(笑)。店もみな閉まってしまうので、近くのダイヤモンド・ホテルにでも行かなければ、食事もままならなかった。そんなゴースト・タウンみたいな街を吹き抜ける風のなかで、しきりに落葉が舞っている。いかにも「所在なし」の寒々しい光景だ。作者はもちろんウィークデーの喧騒を知っているので、余計に「所在なし」と感じている。麹町は典型だが、全国各地の県庁所在地なども、今日あたりはきっと閑散としていることだろう。通りかかって「所在なし」と感じている人も多いだろう。歳末の人込みを詠んだ句は多いが、逆にこうした静寂の風情も捨てがたい。行く年の句として読めば、しみじみと心にしみてくる。藤田湘子主宰誌「鷹」(2001年1月号)所載。(清水哲男)




『旅』や『風』などのキーワードからも検索できます