2001N1句

January 0112001

 二十世紀なり列国に御慶申す也

                           尾崎紅葉

ょうど百年前(明治34年)の元日の句。紅葉33歳。俳句で「列国」に挨拶を送るところなど、往時の若き明治人の気概のありようがうかがえる。意気軒高とは、このことだ。「讀賣新聞」で有名な『金色夜叉』の筆を起こしたのが、作句の三年前。結局未完に終わっているが、金の力で世間を牛耳ろうとした主人公の考え方は、そのまま明治帝国主義の目指した道でもあった。「列国」の一つが愛する女を奪った富山唯継だとすれば、復讐の鬼と化す間寛一は、さしずめ明治国家だろう。こんな言い方もあながち冗談ではないなと、揚句をはじめて読んだときに思った。「列国」という表現そのものが、すでに「制覇」の意識を内包している。紅葉が国家主義者であったとは言わないが、明治の知識人の多くが、無意識にもせよ、いわば国家意識高揚の一翼を担っていたとは言ってもよい気がする。国家の威信が感覚的にも我が身に乗り移っていなければ、こんなことは言えるはずもない。その意味で、大衆性を持った紅葉文学は、社会的に役に立つそれなのであった。以来、百年。「列国」も死語同然になり、どんな文学も社会の実際の役には立たなくなった。二十一世紀の今日元日に目覚めて、揚句のごとき心境になる日本人は、おそらく一人もいないだろう。たった百年のうちに、日本も世界も大きく変わった。これからも、どんどん変化していくだろう。変わりつつ、否応なく国家や国家意識などは解体されていくにちがいない。新世紀に大きな見どころがあるとすれば、このあたりではないだろうか。私たちには、まだ揚句の言わんとすることはわかる。しかし、あと百年もすればわからなくなること必定だろう。『俳句の本』(2000・朝日出版社)所載。(清水哲男)


January 0212001

 御降りや今年いかにと義父の問ふ

                           守屋明俊

父が存命のころは、例年家族で大阪まで挨拶に出かけた。挨拶の座で、必ず「今年いかに」と問われた。それも、実にさりげない調子で……。しかし、さりげないだけに、聞かれたほうはドキリとする。なにせ世に言う正業に就いていない身だからして、問われてもきちんとは答えられないからだ。「まあ、なんとか」などと、曖昧な返事をするしかなかった。義父の質問は、もとより娘の身を案じてのことである。もっと景気のいい返事を聞いて安堵したかったのだろうが、一度もそのようには答えられなかった。私も「義父」と呼ばれる立場になってより、娘婿に会うたびに問いたくなる。ただし相手はドイツ人だから、さりげなくも何も、どう尋ねてよいのかがわからない。そんなドイツ語は、学校で教えてくれなかったからなア(笑)。この正月はあちこちの家で、正業に就いている男たちにも、さりげなくも鋭い質問が投げかけられているのではあるまいか。季語は「御降り(おさがり)」。元来は元日に降る雨を言ったようだが、いまでは三が日の雨降りを言う。雪にも使う場合がある。「御降りのかそけさよ父と酒飲めば」(相生垣瓜人)。こちらは、実父だ。父親と呑んではいるけれど、会話ははずんでいない。初春の雨の音が、かそけく聞こえてくるばかり。父と息子との関係は、たいていがこのようなものだろう。そこに、味わいもあるのだが。『西日家族』(1999)所収。(清水哲男)


January 0312001

 羽子板の重きが嬉し突かで立つ

                           長谷川かな女

子板は女の子の世界のもの。後藤夜半に「羽子板の冩楽うつしやわれも欲し」があって、自分が女の子でないことを残念がっている。この気持ちは、よくわかる。買って買えないことはないのだけれど、買ったからといってどうにもならない。結局は、持て余すだけだろうからだ。もっとも「冩楽うつし」というのであれば、羽子板市で売っているような飾り物としての豪華な羽子板かもしれない。だとすると、なおさらだ。ところで、揚句の羽子板はそうした飾り物ではない。ちゃんとそれで遊べるのだが、安物ではない上等な羽子板なのだ。だから、手に重い。こんなに立派な羽子板を手にしたのははじめてなので、嬉しくて仕方がないという風情。表では、友だちの羽根つきが賑やかにはじまっている。いっしょに遊ぼうと飛び出していって、しかし、すぐには加わらず、しばらくは羽子板の重さを楽しんで立っている。そしておそらく、羽子板は友だちからは見えないようにして持っているのだと思う。ちょっと後ろ手気味にして……。みんなが見たら、きっと「いいなあ」と言うだろう。その一瞬が恥ずかしくもありまぶしくもあって、すっと仲間の輪に入れない気持ちも込められている。ここに夜半のような人が通りかかれば、たちまちに「突かで立つ」女の子の気持ちを見抜いて、そのいじらしさ可愛らしさに微笑を浮かべるにちがいない。この句は、虚子に「女でなければ感じ得ない情緒の句」と推奨された。かな女初期の代表作である。『龍膽』(1910-29)所収。(清水哲男)


January 0412001

 年酒酌むふるさと遠き二人かな

                           高野素十

事始め。出版社にいたころは、社長の短い挨拶を聞いてから、あとは各セクションに分かれて「年酒(ねんしゅ)」(祝い酒)をいただくだけ。実質的な仕事は、明日五日からだった。帰郷した社員のなかには出社しない者もおり、妻子持ちは形だけ飲んでさっさと引き上げていったものだ。いつまでもだらだらと「年酒」の場から離れないのは、独身の男どもと相場が決まっていた。もとより、私もその一人。早めに退社しても、どこにも行くあてがないのだから仕方がない。そんな場には、揚句のような情緒は出てこない。この「二人」は夫婦ととれなくもないが、故郷に帰れなかった男「二人」と解したほうが趣きがあるだろう。遠いので、なかなか毎年は帰れない。故郷の正月の話などを肴に、静かに酌み交わしている。しみじみとした淑気の漂う大人の「年酒」であり、大人の句である。揚句は、平井照敏の『新歳時記・新年』(1990・河出文庫)で知った。で、本意解説に曰く。「新年の祝いの酒なので、祝いの気持だけにすべきもので、酔いつぶれたりすることはその気持に反すること甚だしい」。『歳時記』に叱られたのは、はじめてだ(笑)。阿波野青畝に「汝の年酒一升一升又一升」という豪快な句があり、どういうわけか、この句もこの『歳時記』に載っている。(清水哲男)


January 0512001

 手毬の子妬心つよきはうつくしき

                           石原舟月

人の女の子が毬(まり)つきをしている。見ていると、なかに相当に負けず嫌いの子がいて、一番になりたいと何度でもつき直している。「妬心(こしん)」が強いのだが、他の争わない子と比べて、その子が最も美しく見えた。真剣の美だ。手毬にかぎらず、男女の別なく、たしかに真剣な表情は美しい。同時に作者は、この小さな気性の激しい女の子の未来に、ちらと思いを馳せたにちがいない。「妬心}の強さが心配だからだ。美しい女の子の姿に、淡いが暗い影がさっと走り抜けている……。ところで、毬つきといえば唄がつきもの。地方によってさまざまだろうが、よく例に出される古い唄では「本町二丁目の糸屋の娘、姉は二十一、妹ははたち、妹ほしさに宿願かけて、伊勢へ七たび熊野へ三たび、愛宕様へは月参り」があり、ちっちゃな女の子には意味などわかるまい。水上涼子の「手毬唄十は東京なつかしと」は、新しい手毬唄だ。私の育った山口県山陰側では、もっぱら「あんたがたどこさ、肥後さ、肥後どこさ、熊本さ」と歌われていた。九州に近い土地の故だろうか。つづけて「センバヤマ(表記不詳)には狸がおってさ、それを猟師が鉄砲で撃ってさ、煮てさ焼いてさ食ってさ」と歌い、おしまいは「それを木の葉でちょいとかくす」となる。最後に毬を股の間から後ろにまわし、お尻のところで受け止めるのである。中世からはじまったという手毬つきも、とんと見かけることもなくなった。時も時節も変わりゆき、そして遊びも変わっていく。『合本俳句歳時記第三版』(1997・角川書店)所載。(清水哲男)


January 0612001

 女手の如き税吏の賀状来ぬ

                           ねじめ正也

者は商店主だったから、税吏(ぜいり)とは不倶戴天の間柄(笑)だ。いつも泣かされているその男から、どういう風の吹き回しか、年賀状が舞い込んだ。そのことだけでもドキリとするが、どう見ても「女手(女性の筆跡)」なのが、彼の日ごろのイメージとは異なるので解せない。カミさんに書かせたのか、それとも自分で書いたのか。見つめながら、寸時首をかしげた。結論は「女手の如き」となって、彼の自筆だというところに落ち着いた。彼本来の性格も、これで何となく読めた気がする。今後は、応接の仕方を変えなければ……。正月は、税金の申告に間近な時季なので、リアリティ十分に読める句だ。だれだって、税金は安いほうがよい。大手企業とは違い、商店の商い高など知れているから、多く税吏との確執は必要経費をめぐってのそれとなるだろう。商売ごとに必要経費の実質は異なるので、税吏との共通の理解はなかなか成立しないものなのだ。税吏は申告の時期を控えて、話をスムーズにすべく賀状を出したのだろうが、さて、この後に起きたはずの二人のやり取りは、いかなることにあいなったのか。いずれにしても成り行きは「自転車の税の督促日短か」と追い込まれ、春先には「蝿生る納税の紙幣揃へをり」となっていく。商人は、一日たりともゼニカネのことを思案しないではいられない身空なのだ。『蝿取リボン』(1991)所収。(清水哲男)


January 0712001

 竹馬やいろはにほへとちりぢりに

                           久保田万太郎

いていの歳時記の「竹馬」の項に載っている句。小学時代以来の親友の篠原助一君(下関在住)は、会うたびに「なんちゅうても、テッちゃんとは竹馬(ちくば)の友じゃけん」と言う。聞くたびに、いい言葉だなあと思う。もはや死語に近いかもしれぬ「竹馬の友」が、私たちの間では、ちゃんと生きている。よく遊んだね。そこらへんにいくらでも竹は生えていたから、見繕って切り倒してきては、竹馬に仕立て上げた。乗って歩いているときの、急に背が高くなった感じはなんとも言えない。たしかアンドレ・ブルトンも言ってたけれど、目の高さが変わると世界観も変わる。子供なので世界観は大仰だとしても、この世を睥睨(へいげい)しているような心地よさがあった。揚句の「いろはにほへと」には、三つの含意があると思う。一つは竹馬歩きのおぼつかなさを、初学に例えて「いろはにほへと」。二つ目は、文字通りに「いろはにほへと」と一緒に習った仲間たちとの同世代意識。三番目は、成人したあかつきを示す「色は匂えど」である。それらが、いまはすべて「ちりぢりに」なってしまった。子供のころ、まだまだ遊んでいたいのに夕暮れが来て、竹馬遊びの仲間たちがそれぞれの家に「ちりぢりに」帰っていったように……。ここで「ちりぢりに」は、もちろん「ちりぬるを」を受けている。山本健吉は「意味よりも情緒に訴える句」と書いたが、その通りかもしれず、こんな具合に分解して読むよりも、なんとなくぼおっと受け止めておいたほうがよいような気もする。とにかく、なんだか懐かしさに浸される句だ。(清水哲男)


January 0812001

 読初の葩餅の由来かな

                           大橋敦子

来の「読初(よみぞめ)」は、新年にはじめて朗々と音読することを言った。男は漢籍、女は草紙などを読み上げたという。このデンからすると、私の場合は元日正午のニュース原稿読みとなる。戦後もしばらくの間は音読の習慣が残っており、毎朝学校に行く前の子供らの声があちこちから聞こえてきたものだが、いつしか廃れてしまった。いまのように黙読が主流の時代は、存外と短いのである。音読の教育的効果には高いものがあり、意味などわからなくとも、まずは音で身体に文字や文章を覚えこませる。そうやって身に付けた言葉は、いつの日か、意味を伴って開花する。例えて言えば、子供の頃に覚えた大人の唄の意味が、ある日突然に了解できるのと同じことだ。たぶん揚句では「黙読」だろうが、これを昔ながらの音読ととらえてみるのも一興だ。「葩餅(はなびらもち)」は正月のものだし、作者はさしせまっての必要があって由来を調べたのだろう。ならば、これを「読初」にしてしまおうと、家人の耳を気にしながら小声で読んでいる。あるいは、逆に家人か会合での誰かに読み聞かせた後で、「あっ、これが読初になった」と気がついたのかもしれない。。音読と解すれば、そんなほほ笑ましい情景が浮かんでくるので、私は強引に音読ととっておきたい気分だ。なお「葩餅」とは「餅または団子の一種で花弁の形をしたもの。特に、薄い円形の求肥(ぎゅうひ)を二つ折りにした間に、牛蒡(ごぼう)の蜜漬、白味噌、小豆あずきの汁で染めた菱形の求肥を挟んだものが著名で、茶道の初釜(はつがま)に用いる」と『広辞苑』にある。『葩餅』(1988)所収。(清水哲男)


January 0912001

 猟夫伏せ一羽より目を離さざる

                           後藤雅夫

語は「猟夫(さつお)」で冬、多くの歳時記で「狩」の項目に分類されている。ねらっているのは、雉などの山鳥か、鴨などの水鳥だろうか。精神を集中し、伏せてねらうハンターの眼光炯々たる姿が彷彿としてくる。私のささやかな空気銃体験からしても、ねらいは「一羽」に定めないと必ず失敗する。あれもこれもでは、絶対に撃ち損ずる。猟の世界は、まさに「二兎を追う者は一兎をも得ず」なのだ。農村にいたころは、農閑期となる冬に猟をする男たちが多かった。犬を連れて、山奥に入っていく姿をよく見かけた。たまさか聞こえてくる猟銃音に、どうだったかと期待したものだ。獲物はたいていが雉か兎で、帰ってきた男たちが火を焚き、それらを手早く捌いていく様子に見ほれていた。ところで揚句とは逆に、ねらわれる鳥の様子を詠んだのが、飯田蛇笏の「みだるるや箙のそらの雪の雁」である。「箙(えびら)」は、矢を入れるための容器。空飛ぶ雁には地上の猟師たちが持つ「箙」の無数の矢数が見えており、いまにもそれらが飛んでくる気配に恐怖を感じているのであり、したがって飛列も大いに乱れることになる。雁からすれば、恐怖感で地上の「箙」しか眼中にはないだろうから、作者は「箙のそら」と単純化した。力強くも、雁の哀れを描いて見事と言うほかはない。このとき、蛇笏二十七歳。若くして、完成された句界を持っていたことがわかる。『冒険』(2000)所収。(清水哲男)


January 1012001

 冬眠すわれら千の眼球売り払い

                           中谷寛章

作。「眼球」を「め」と読ませている。「目」では駄目なのだ。すなわち物質としての目玉まで売り払って、覚悟を決めた「冬眠」であると宣言している。もはや「われら」は、二度と目覚めることはないだろうと。ここで「われら」とは、具体的な誰かれやグループを指すのではない。強いて言えば、現在にいたるまでの「われ」が理想や希望を共有したと信ずる多くの(「千」の)人々である。そこには、未知の人も含まれている。したがって、せんじ詰めれば、この「われら」は「われ」にほかならないだろう。「われ」のなかの「われら」意識は、ここで壮絶な孤独感を呼び覚ましている。中谷君は、大学の後輩だった。当時は波多野爽波のところにいたようだが、そういう話は一度も出なかった。社会性の濃い話が中心で、常に自己否定に立った物言いは、息苦しいほどだった。共産同赤軍派の工作員と目され公安警察につきまとわれたことは後で知ったが、何事につけ誠実な男だった。いつも「われ」ひとりきりで、ぎりぎりと苦しんでいたのだ。それが若くして病魔に冒され、揚句のような究極の自己否定にいたらざるを得なかった中谷君の心情を思うと、いまだに慰めようもない。句には、明らかに死の予感がある。結婚して一子をあげた(1973年11月)のも束の間、三十一歳で急逝(同年12月16日)してしまった。彼は、赤ちゃんの顔を見られたろうか……。京大俳句会の先輩だった大串章に「悼 中谷寛章」と前書きした「ガードくぐる告別式の寒さのまま」がある。『中谷寛章遺稿集・眩さへの挑戦』(1975・序章社)所収。(清水哲男)


January 1112001

 目隠しの闇に母ゐる福笑ひ

                           丹沢亜郎

集には、つづけて「ストーブの油こくんと母はなし」とあるから、亡き母を偲ぶ句だ。「福笑ひ」は、目隠しをしてお多福の面の輪郭だけが描かれた紙の上に、目鼻や口などの部品を置いていく正月の遊び。珍妙な顔に仕上がるほうが喜ばれる。最近は、さっぱり見かけなくなった。ほんの戯れ事ながら、お多福は女性なので、作者は「目隠しの闇」のなかで不意に母の面影を思い出したのだろう。となれば、珍妙に仕上げるどころか、逆にちゃんとした顔を作りたいと真剣になっている。そんな作者の気持ちはわからないから、周囲ははやし立てる。ストーブの句でもそうだが、死しても「母」は、いつでもどこからでも子供の前に立ち現れるのだ。句はさておいて、私はこの遊びが好きではなかった。変な顔、珍妙な顔を笑うということがイヤだったからだ。博愛主義者でもなんでもないけれど、人並みではないからといって、それを笑いの対象にする心根が嫌いだった。いまでも身体的なことにかぎらず、そういう笑いは嫌いだ。だから、珍妙な顔をしてみせて笑いをとる芸人も大嫌いで、テレビを見て最初に嫌いになったのは柳家金語楼という落語家だった。自虐的だからよい、というものではない。この自虐は、他人の欠陥を笑うという下卑た感覚におもねっているから駄目なのである。ましてや、いまどきのテレビにやたら髭などを描いて出てくるお笑いるタレントどもは、最低だ。あさましい。みずからの芸無しを天下に告白しているようなもので、見てはいられない。『盲人シネマ』(1997)所収。(清水哲男)


January 1212001

 マスクして我と汝でありしかな

                           高浜虚子

拶句だ。前書に「青邨(せいそん)送別を兼ね在京同人会。向島弘福寺」とある。調べてはいないが、山口青邨が転勤で東京を離れることになったのだろう。1937年(昭和十二年)一月の作。国内での転勤とはいえ、当時の交通事情では、これからはなかなか気軽に会うこともできない。そこで送別の会を開き、このような餞(はなむけ)の一句を呈した。お互いがいま同じようなマスクをしているように、同じように俳句を作ってきたので、外見的には似た道を歩んできたと言える。だが、振り返ってみれば「我」と「汝」はそれぞれの異なった境地を目指してきたことがわかる。これからも「汝」は「汝」の道を行くのであろうし、「我」は「我」の道を行く。どうか、元気でがんばってくれたまえ。大意はこういうことであろうが、目を引くのは句における「我」と「汝」の位置関係だ。青邨は虚子の弟子だったから、第三者が詠むのであればこの順序が自然だ。ところが、虚子はみずからの句に自分を最初に据えている。餞なのだから、こういうときには先生といえども、多少ともへりくだるのが人の常だろう。しかし、虚子はそれをしていない。「我」があって、はじめて「汝」があるのだと言っている。「我」を「汝」と対等視したところまでが先生の精いっぱいの気持ちで、それ以上は譲れなかった。いや、譲らなかった。大虚子の昂然たる気概が、甘い感傷を許さなかったのだ。マスクに覆われた口元は、への字に結ばれていたにちがいない。『五百五十句』(1943)所収。(清水哲男)


January 1312001

 戸口より日暮が見えて雪の国

                           櫛原希伊子

の演出もないから、外連味(けれんみ)もない。こういう句もいい。雪国というほどではなかったが、ときに休校になるほどは降った故郷を思い出す。何も考えずに、戸口からぼおっと暮れてゆく雪景色を見ていた。土間の冷えは厳しいが、それよりも周辺が暗くなりはじめ、やがて風景が真っ白な幻想の世界一色へと変わっていく様子に魅かれていた。奥の囲炉裏で盛んにぱちぱちと火のはねている音も、懐かしい。だいたいが「夕暮れ」好きで、春も「あけぼの」ではなくて「夕暮れ」だ。性格がたそがれているのかもしれないけれど、たぶん「夕暮れ」からは、義務としての何かをしなくてもよい時間になるからなのだろう。とくに子供の頃は、夜になると、何もすることがなかった。テレビもラジオも、ついでに宿題もなかったので、ご飯がすんだら寝るだけだった。ランプ生活ゆえ、本も読めない。布団にもぐり込んでから、いろんなことを空想しているうちに、眠りに落ちてしまった。考えてみれば、「夕暮れ」以降の私は、鳥や獣とほとんど同じ生活をしていたわけだ。そうした無為の時間を引き寄せる合図が、長い間、私の「夕暮れ」だったので、いつしか身体に染みついたようである。大人になったいまも、夜に抗して何かをする気にはならないままだ。原稿も、夜には書かない。だから「夕暮れ」になると、一日はおしまいだ。大げさに言えば、その時間で社会とは切れてしまう。そんな気になる。ずっと以前に、その名も「夕暮れ族」なる売春組織が摘発されたことがある。新聞で読んで、ネーミングだけは悪くないなと思った。『櫛原希伊子集』(2000)所収。(清水哲男)


January 1412001

 寒燈といへどラジオを点すのみ

                           永井龍男

戦間近の句。夜間、敵機来襲の警戒警報か空襲警報が発令されたのだろう。灯火管制下なので、家の中の電灯はみんな消した。上空の敵に、灯火をターゲットにさせないためだ。だから、暗闇のなかで小さくぼおっと点っているのは、ラジオの目盛りの窓だけである。寒さも寒し。それでなくとも冬の燈は侘びしいのに、ラジオの燈だけとは実に侘びしい。いつ爆弾が降ってくるかもしれぬ状況なのだが、こんな思いもわいてくるのは、空襲慣れのせいだと言える。おそろしいもので、人は命の危険にも、あまりにさらされつづけると慣れてしまう。最初のパニック状態を、いつしか忘れてしまうのだ。ラジオだけは消さなかったのは、むろん情報を得るためである。後にほとんどが嘘八百の情報だったと知ることになるのだが、当時の人々は、情報をラジオに頼るしか手段がなかった(いまの大災害時でも、似たようなものだけれど……)。だから、どこの家でも一日中ラジオはつけっぱなしだった。聴取率は、限りなく百パーセントに近かったろう。庭先の防空壕に避難するときは、室内からコードを延ばせるだけ延ばし、ボリュウムをいっぱいに上げて耳を澄ませた。真っ暗やみの町内に、警報のサイレンとラジオの音だけが響いていた。そしていよいよ敵機来襲ともなれば、上空には煌々とサーチライトが交錯し、ときどき周辺に照明弾が落とされて、真昼のように明るくなる。爆弾(ほとんどが焼夷弾)が投下されはじめると、民家からあがる火の手も凄いが、伴う煙のほうがもっと凄くて苦しい。生まれてはじめて「死ぬ」と思ったのは、そのとき、五歳のときだった。そんな「日常」のなかから偶然にも生き残り、早朝の寒燈の下で、こんなことを書いている不思議。『文壇句会今昔』(1972)所収。(清水哲男)


January 1512001

 雪降りつもる電話魔は寝ている

                           辻貨物船

夜、しんしんと冷え込んできた。表は雪だ。雪国育ちとは違って、作者のような東京の下町っ子は、たまに積もるほどの雪が降ると興奮する。嬉しくなる。といって、子供のようにはしゃぐわけではない。はしゃぎたい気持ちを抑えて、静かに瞑目するように雪の気配をいつまでも楽しむのだ。当然、お銚子一本くらいはついているだろう。この静かな雰囲気をぶち壊す者がいるとすれば、娘だろうか、とにかく話しだしたら止まらない「電話魔」だ。日ごろでも、うるさくてかなわない。そのことにふっと思いがいたり、幸いにも「寝ている」なと安堵している。雪の夜の静寂を詠んだ句は数あれど、こんなに奇抜な発想によるものは見たことがない。一読吹き出したが、たしかに言い得て妙だ。そしてこの妙は、単に雪の夜の静謐を表現しているばかりではなく、寝ている「電話魔」を含めての家族の平穏なありようにまで届いている。そこが、揚句の魅力なのである。詩人・辻征夫の暖かくも鋭い感受性の所産だ。ところで雪の夜の静寂を描いた詩では、三好達治の「雪」が有名だ。「太郎を眠らせ、太郎の屋根に雪ふりつむ。/ 次郎を眠らせ、次郎の屋根に雪ふりつむ」。数年前にある大学の教室で解釈させたら、かなりの数の学生が「眠らせ」を「殺して」と説明したそうだ。新聞で読んだ。吹き出すよりも、「電話魔」世代の荒涼たる言語感覚をいたましく思った。『貨物船句集』(2001)所収。(清水哲男)


January 1612001

 わが過去に角帽ありてスキーなし

                           森田 峠

さに自画像を見る思い。といっても、作者は学徒動員世代だから「スキーなし」の環境は私などの世代とは大いに異なる。戦争中で、スキーどころではなかったのだ。私が大学に入ったのは、戦後も十三年目の1958年。しかし日本全体はまだ貧乏だったので、スキーに行けたのは、かなり裕福な家庭の子女だけだった。大学には一応戦前からのスキー部はあったが、部員もちらほら。同級生に羽振りのよかった材木屋の息子がいて、高校時代からスキーをやっていたという理由だけから、いきなりジャンプをやれと先輩から命令され、冗談じゃねえと止めてしまった。入学すると、とりあえずは嬉しそうに「角帽」をかぶった時代で、そんな戦前の気風をかろうじて体験できた世代に属している。だから、表層的な意味でしかないけれど、作者の気持ちとは共通するものがある。そんなこんなで、ついにちゃんとしたスキーをはかないままに、わが人生は終わりとなるだろう。べつに、口惜しくはない。ただ、もう一度はいて滑ってみたいのは、子供の頃に遊んだ「山スキー」だ。太い孟宗竹を適当な長さに切り、囲炉裏の火に焙って先端を曲げただけの単純なものである。ストックがないので、曲げた先端部分をつかんで滑る。雪ぞりの底につける滑り板の先端部分を、もう少し長くした形状だった。深い雪で休校になると、朝から夕暮れまで、飽きもせずに滑った。むろん何度も転倒するので、服はびしょびしょだ。服などは詰襟一つしかないから、夜乾かすのに母が大変苦労したようである。乾かなければ、明日学校に着ていくものがないのだから……。揚句の受け止め方には、いろいろあるはずだが、その受け止めようにくっきりと表れるのは、世代の差というものであるだろう。『避暑散歩』(1973)所収。(清水哲男)


January 1712001

 味噌汁におとすいやしさ寒卵

                           草間時彦

嘲だろう。他人の「いやしさ」を言ったのでは、それこそ句が卑しくなる。句品が落ちる。おそらくは、旅館での朝餉である。生卵はつきものだけれど、作者はそんなに好きではないのだろう。飯にかけて食べる気などは、さらさらない。かといって、残すのももったいない。というよりも、この卵も宿泊費の一部だと思うと、食べないのが癪なのだ。そこで生の状態を避けるべく、味噌汁に割って落とした。途端に、なんたる貧乏人根性かと、なんだか自分の「いやしさ」そのものを落としたような気がした……。食べる前から、後味の悪いことよ。鶏卵は、寒の内がもっとも安価だ。それを知っていての、作者の自嘲なのである。鶏の産卵期にあたるからで、昔から栄養補給のためには、庶民にとってありがたい食材だった。だから、盛んに食べてきた。栄養を全部吸い取れるようにと、生のままで飲むことが多かった。したがって俳句で「寒卵」と特別視するのは、べつに寒卵の姿に特別な情緒などがあるからではなく、多く用いられるという実用面からの発想だ。ところで、私の「いやしさ」は酒席で出る。お開きになって立ち上がりながら、未練がましくも、グラスに残っているビールをちょっとだけ飲まずにはいられない。『朝粥』(1979)所収。(清水哲男)

[紹介]上記をアップしてすぐに、当方の掲示板に次のような感想が寄せられました。「歳時記に『寒の卵は栄養分に富み・・・』とあるのを読みました。ですので、なんだか壮年を過ぎようとする男の人のあらがいと、戦中戦後の卵が貴重だった時代を経てきた己が身とをまとめて、習い性を、ちょっと露悪的に『いやしさ』と言ってみたような句の気がしました」(とびお)。考えてみて、とびおさんの解釈のほうが自然だと思いました。私のは牽強付会に過ぎますね。ま、自戒記念にそのままにしてはおきますが(苦笑)。とびおさん、ありがとうございました。


January 1812001

 湯婆などむかしむかしを売る小店

                           杏田郎平

婆は「ゆたんぽ」、古くは「たんぽ」とも読んだ。若い読者は見たこともないだろう。金属製の容器に湯を注ぎ、そのままでは熱いのでタオルなどでくるみ、寝床の足元に入れて使う保温器の一種だ。まろやかな暖かさが心地よい。揚句はいつごろの作句か不明だが、そんな忘れられた生活用品をいまだに商っている店をみつけて、思わず「ほお」と足を止めた。表には竹箒や物干し竿「など」が置いてあり、それこそ昔にはどこにでもあった雑貨屋(よろずや)である。「むかしむかしを売る」と言ったところに、作者の懐旧の念がくっきりと表れている。湯婆「など」を見ながら、それらを使った日々のことを懐かしんでいる。ところで、なぜ「湯婆」と表記するのだろうか。「湯」はわかるが「婆」が解せない。たいていの歳時記には『和漢三才図会』から引用しての説明がある。曰く「……大さ枕の如くにして小き口有り。湯を盛りて褥傍に置き、以て腰脚を暖む。因りて婆の名を得たり」と。だから(因りて)「婆」なのだということなのだが、「むかしむかし」の人相手ならばともかく、現代人には「因りて」と言われてもわかりっこない。むろん、私もだ。長い間知りたいと思っていたが、どの歳時記にも、この説明しか出てこない。これだけでは、説明にならない。しかし実は昨日になって、ようやく謎が解けた。昨秋上下二巻の岩波文庫として復刻された『増補俳諧歳時記栞草』(堀切実校注)のおかげである。この本は、かの曲亭馬琴が編纂し藍亭青藍が増補して1851年(嘉永四年)に刊行、長く「季寄せ」の最高峰とされてきた。揚句を書くについて、念のためにとめくってみたら、やはり本文には『和漢三才図会』の説明しかなかった。がっかりしながら、何気なく虫眼鏡でしか見えないような下欄の校注に目が行って、はっとした。あった。「婆 中国の俗語で婆(ボー)は女房・妻の意」と出ていたのだ。合わせて、次なる戯詩も。「小姫煖足臥、或能起心兵、千金買脚婆、夜夜睡天明」。すなわち「婆」とは、「ゆたんぽ」が妻と同衾する温みを思わせることからの命名なのであった。夏に使う「竹夫人」と、発想は同根だった。その意味では品川鈴子の「亡き夫に代はる温みの湯婆よ」が、よく「湯婆」の本意に添っている。「夫」は「つま」。この人は、ちゃんと「婆」の意味を知って詠んでいる。『合本俳句歳時記』(1997・角川書店)所載。(清水哲男)


January 1912001

 罠ありと狸に読めぬ札吊りし

                           村上杏史

語は「狸」で冬。狐も冬だが、冬期は山中に餌が乏しくなり、里へ降りてきて人と接触することが多いからだろうか。私の住む多摩地域では、いまでは四季を問わずにひょっこり出現し、新聞ダネになったりする。狸にかぎらない。現代の山は食料難だから、我が故郷では野猿が跳梁し難儀していると聞く。さて、揚句はそのまんま句だけれど、なんとなく可笑しい。人を化かすのは得意な狸だが、哀しいかな文字が読めないのだ。狸は通り道も決まっているそうで、罠も仕掛けやすい。このあたりも間抜けといえば間抜けで、古来言われてきた狸の愛嬌に通じる。捕獲した狸は、毛皮はコートなどの防寒具に、肉は食用(狸汁)とし、毛は毛筆などに加工された。狸毛の筆は柔らかで、まことに書きやすい。狸の句といえば、漱石に「枯野原汽車に化けたる狸あり」の謎のような一句がある。アニメ『となりのトトロ』の化け猫バスじゃあるまいし、いかな狸でも汽車には化けられないだろう。そう思ってきたが、柴田宵曲『俳諧博物誌』によれば、狸はいつの時代にも新事物の研究に熱心で、汽車に化けた狸の話は全国的にあったそうだ。漱石の突飛な発想ではないらしい。ただし、姿を汽車に変えたのではなくて、音を真似たというのが宵曲の推理である。狸の腹鼓というくらいで、狸は音作りにかけては名手なのである。この推理を得て漱石句を読むと、なるほど「枯野原」を轟々と突っ走る見えない汽車の不気味さが伝わってくる。ただ残念なことは、狸の新事物研究の成果も「汽車」止まりで、その後の新しいものに化けた話は聞かない。どんなに秘術を尽くしても人が驚かなくなったので、つまらなくなっちゃったのだろうか。『合本俳句歳時記』(1997・角川書店)所載。(清水哲男)


January 2012001

 嚢中に角ばる字引旅はじめ

                           上田五千石

中(のうちゅう)の「嚢」は、氷嚢(ひょうのう)などのそれと同じ「嚢」。袋、物入れの意。この場合は、スーツケースというほどのものではなく、小振りで柔らかい布製のバッグだろう。旅先で必要なちょっとした着替えの類いのなかに「字引」を一冊入れたわけだが、これがまことに「角ばる」ので収まりが悪い。「字引」とあるが、歳時記かもしれない。「歳時記は秋を入れたり旅かばん」(川崎展宏)。こういう句を読むと、あらためて「俳人だなあ」と思う。俳人は、その場その場で作品を完成させていく。旅先では句会もあるし、いつも「字引」が必要になる。帰宅してから参照すればよいなどと、呑気に構えてはいられない。だから「角ばる字引」の収まりが悪い感覚は、俳人の日常感覚と言ってよいだろう。多く俳人は、また旅の人なのだ。その感覚が年末年始の休暇を経た初旅で、ひさしぶりによみがえってきた。さあ、また新しい一年がはじまるぞ。「角ばる字引」のせいで少しゆがんだバッグを、たとえば汽車の網棚に乗せながら得た発想かと読んだ。私は俳人ではないから、いや単なる無精者だから、旅に本を携帯する習慣は持たない。たまに止むを得ず持っていくときには、収まりは悪いは重いはで、それだけで機嫌がよろしくなくなる。何か読みたければ、駅か旅先で買う。そして、旅の終わりの日には処分する。めったに持ち帰ったことはない。そうやって、いちばんたくさん読んだのが松本清張シリーズである。『俳句塾』(1992)所収。(清水哲男)


January 2112001

 おうおうといへど敲くや雪の門

                           向井去来

蕉が「関西の俳諧奉行」と言った去来の代表作。「敲く」は「たたく」。門をたたく者があるので、なかから「おうおう」と応えたが、聞こえないのか気が急いているのか、まだたたきつづけている。「雪の門」の「雪」の降りしきる様子が、何も書かれてはいないが、目に見えるようだ。さらには、「おうおう」と応える作者の声までもが聞こえてくる。家のなかをゆったりと戸口に出ていく作者と、表をドンドンとたたく訪問者との息遣いの対比が絶妙だ。ドアチャイムやドアホンなどなかった時代には、訪問者はみなこのように門をたたいた。あるいは、大声で来訪を告げた。元禄の昔はもちろんだが、戦後しばらくまでも同様だった。子供の頃、友人宅に遊びに出かけたときは、たいてい大声で名前を呼んだものである。「○○ちゃん、アソぼうよ」と、まことに直截な挨拶を送っていた。何度呼んでも応えがないときもあり、玄関の扉に耳をくっつけるようにしてナカの様子をうかがったりした。他家を訪問するときだけではなく、商店に入るときも挨拶が必要だった。山口の田舎では「ごめんさんせ」と入ったが、「ごめんください」の地方語だ。「ごめんさんせ」と言うのが、最初はなんとなく大人ぶっているようで、気恥ずかしかったことを覚えている。いまでは、たたくことも声を出すこともない。誰もがヌーッと、どこにでも入っていく。便利な世の中になったものだが、「ごめんさんせ」の世代にはどこか不気味だ。このところ我が家のチャイムは不調で、ボタンを押しても鳴らなかったりする。そんなときに必ず扉をたたくのは、宅配便の人。きっと「原点に戻れ」と、マニュアルに書いてあるのだろう。「おうおう」と応えても聞こえないので、扉を開けるまでたたいてくれる。ご苦労様です。(清水哲男)


January 2212001

 お辞儀してマフラー垂れて地上かな

                           池田澄子

々とお辞儀をした拍子に、マフラーが垂れてしまった。ここまではよくあることだし、ここまででも一句できそうだ。が、作者は粘り腰。マフラーの先の「地上」を詠んだ。マフラーが垂れたことによって、お辞儀をした相手から一瞬ふっと意識がそれたのだ。ほんの短い時間だが、「ああ、ここは地上なのだ」と、妙に得心がいったのである。お辞儀という生真面目な仕草の途中だけに、なんとなく可笑しい。私たちの意識は連続しているようで、そうでもないらしい。時折、このようにぷつっと切れる。あるいは、落ちる。その切れや落ちを補うのが、身体にしみついた習慣であり動作であるだろう。そのおかげで、社会的対人的な交通がスムーズになる。礼儀作法は、そのための必須行為として発明され育てられてきた。だから、社会的に未成熟な子供らの集団では、こうはいかない。保育園や幼稚園の混乱は、たいていが「地上」に目が行きっぱなしになることから起きるのではあるまいか。ここでお辞儀の相手は、まさか作者が「地上」を発見して納得しているとは露ほども思わない。だから、余計にユーモラスに感じられる。ユーモラスではあるけれど、しかし、句は人間の本当のありようを的確にとらえている。ユーモアの核心は、いつだって「本当」に触れていなければならない。俳句は多く日常茶飯事をモチーフとするが、粘り腰で日常をつかめば、まだまだ詠む材料には事欠かない。そのサンプルが、揚句というわけである。「俳壇」(2001年2月号)所載。(清水哲男)


January 2312001

 うつし身の寒極まりし笑ひ声

                           岡本 眸

妙な味がする。理由は、私たちが「感極まる」という言葉を知っているからだ。そして「感極まり」とくれば、後には「泣き出す」など涙につながることも知っているからである。しかし揚句では「寒極まり」であり、涙ならぬ「笑ひ」につながっている。だから、はじめて読んだときには、変な句だなあと思った。思ったけれど、いつまでも「笑ひ声」が耳についているようで離れない。もとより作者は「感極まる」の常套句を意識しての作句だろうが、この常套句を頭から排して読めば、そんなに奇妙とも言えないなと思い直した。戸外からだろうが、どこからか聞こえてきた「笑ひ声」に、寒さの極みを感じ取ったということになる。その声はたしかに笑っているのだけれど、暖かい季節とは違い、それこそ「感」(ないしは「癇」)が昂ぶっているような笑い声なのだ。これも「うつし身」であるからこそ、生きているからこその「笑ひ声」である。作者はここで一瞬、人間が自然の子であることを再認識させられている。字句だけを追えば、このあたりに解釈は落ち着くだろう。とはいえ、やっぱり「寒極まる」は気になる。字面だけの意味とは、受け取りかねる。「寒極まる」と「感極まる」の間を行ったり来たりしているうちに、ますます実際には聞いたこともない「笑ひ声」が耳について離れなくなる。奇妙な味のする句としか言いようがない。むろん、私は感心して「奇妙な味」と言っている。(清水哲男)


January 2412001

 梅林やこの世にすこし声を出す

                           あざ蓉子

まりに寒いので何か暖かそうな句はないかと、南国(熊本県玉名市)の俳人・あざ蓉子の句集をめくっていたら、この句に出会った。いつも不思議な句を作る人だが、この句も例外ではない。不思議な印象を受けるのは、「この世にすこし声を出す」の主語が不明だからだろう。「声を出す」のは作者なのか、梅林そのものなのか。あるいは、遠い天の声やあの世のそれのようなものなのだろうか。書かれていないので、一切わからない。わからないけれど、一読、寒中にぽっと暖かい光の泡粒が生まれたような気配がする。となれば、発語の主は梅の花なのか。でも、こんなふうにして、この句にあまりぎりぎりと主語を求めてみても仕方がないだろう。丸ごとすっぽりと句に包まれて、そこで何かを感じ取ればよいのだという気がする。多くあざ蓉子の句は、そんなふうにできている。作ってある。広い意味で言えば、取り合わせの妙を提出する句法だ。普通に取り合わせと言えば、名詞には名詞、あるいは形容詞には形容詞などと同一階層の言葉を取り合わせるが、作者の場合には、名詞(梅林)には動詞(「声を」出す)という具合である。だから、うっかりすると取り合わせの企みを見逃してしまう。うっかりして、動詞「出す」とあるので、冒頭に置かれた名詞(梅林)に、一瞬主語を求めてしまったりするのである。作者は、そんな混乱や錯覚を読者に起こさせることで、自身もまた楽しんでいる。まっこと「危険な俳人」だ。と、これはおそらく「天の声」なり(笑)。『猿楽』(2000)所収。(清水哲男)


January 2512001

 寒の水喉越す辛口と思ふ

                           小倉涌史

中の水は、飲みにくい。というよりも、まずは飲む気もしない。でも、揚句の作者は微笑している。「うむ、こいつは辛口だ」と……。べつに名水などを味わうようにして飲んだわけではなく、単なる水道水を必要があって飲んだだけだろう。薬を飲むなどの必要からだ。「辛口」に引摺られて「ははーん、二日酔いだな」と受け取るのは早とちり。なぜなら、酔いざめの水には「辛口」も「甘口」もへったくれあったものではなく、ましてや「喉越す」味わいの微妙さは意識の外にある。悠長に、したり顔をして「辛口」なんぞと思う余裕はないはずだ。そういうことではなくて、作者は寒い場所で、まったくの素面(しらふ)でいやいや仕方なく水を飲んだのだと思う。意を決して飲んでみたら、意外にも喉元を通る感覚が心地よかった。酒で言えば「辛口」だと思った。寒中の水の味も存外いけるなと、作者は内心でにっこりとしたのだ。この体験の新鮮さに、ちょっと酔っていると言ってもよい。私は痛風(『小公子』の主人公・セドリックのおじいさんと同じ病気。これが自慢?!)持ちなので、医者からとにかく大量に水を飲めと言われている。多量の尿酸を一気に排泄するには、いちばん簡便な方法である。暖かい季節は苦にならないが、冬場はしんどい。早朝の一杯が、とりあえずはきつい。でも、年間を通してみて、水の味がするのはこの季節がいちばんではある。飲むときに、ちらっと逡巡する。その逡巡が、その意識が、口中や喉元に受けて立つ構えを作るからだろう。「寒」には「冷」か。たしかに、かっちりとした味を感じる。『受洗せり』(1999)所収。(清水哲男)


January 2612001

 猟銃も女も寝たる畳かな

                           吉田汀史

題は「猟銃」から「狩」につなげて冬。作者がいるのは、山の宿だ。たぶん、猟場に近い土地なのである。夕食もすんで、ひとりぽつねんと部屋にいる。「さて、寝るとしようか」。と、立ち上がったときの着想だろう。宿屋だから、これまでにいろいろな人が泊まった。「猟銃」を持った男も泊まったろうし、女の客もあったにちがいない。いずれもが、この同じ「畳」の上で寝たのである。その連想から「男」を消して「猟銃」を生かし、「女」をそのままにしたところが、揚句のミソだ。硬質な「猟銃」と柔らかい「女」身との取り合わせが、ほのかなエロティシズムを呼び起こす。もとより作者の頭の中のことではあるが、この見知らぬ「女」の生々しさはどうだろうか。作者とともに、ここで読者もあらためて「畳」に見入ってしまうことになる。揚句で、思い出した。原題は忘れたが、たしかジョセフ・ロージーの映画に『唇からナイフ』というのがあって、タイトルに魅かれて見に行ったことがある。女の「唇」と冷たい「ナイフ」。ポップ感覚に溢れた作品だった。『口紅から機関車まで』という本もあった。揚句は、こういった流れを引き継いだ発想と言えるだろう。一方では、たとえばマリリン・モンロー主演の『荒馬と女』が連想される。このタイトルが「美女と野獣」の系列にあることは明らかで、これもエロティシズムをねらったタイトルだが、「猟銃と女」には及ぶまい。生身と生身とではなく、いわば「機械」と「身体」が反射しあうとき、より「身体」は生き生きと不思議な輝きを帯びるのである。「俳句研究」(2001年2月号)所載。(清水哲男)


January 2712001

 独り碁や笹に粉雪のつもる日に

                           中 勘助

の祖父も囲碁好きで、よく「独り碁」を打っていた。囲碁は長考を伴うゲームだから、そんな祖父の周辺には、いつも静寂の気があった。作者は『銀の匙』などで知られる作家。詩集もあり、短歌俳句もよくした。粉雪(作者は「こゆき」と読ませている)の降る日は、とくに寒い。出かける気にもならず、ひとり静かに碁石を並べているのである。考えあぐねて、ふと窓外に目をやると、庭の笹には雪が積もっている。しばし笹の雪に目を楽しませて、また作者は碁盤に向かう。小さな碁石の冷たさが、小さな笹の葉の上の雪に通いあい、抒情味の深い句になった。私の気質からすれば、ついに到達できそうもない憧れの世界だ。短気ゆえ、囲碁は下手くそ。相手をねじり倒すことばかりに執して、結局はずたずたにされてしまう。粘り強くないのである。ひとりでじっくりと碁に取り組むなんてことは、金輪際できそうもない。だからこそ、逆に憧れる。閑居して「独り碁」を楽しみ、そのゆったりとした時間が味わえたら、どんなに人間が大きくなった気がするだろうか。いや、実際に大きくなるのだろうか。学生時代に祖父に囲碁を教えてくれと言ったら、「こんなに時間がかかる遊びを、若いうちからやるもんじゃない」と叱られた。恨めしかったが、教えてもらっても駄目だったろう。祖父は、おそらく私の気性を見抜いていたのだ。どうせ、モノにはなるまいと……。雪の日の「独り碁」か。カッコいいなあ。溜め息が出る。『中勘助全集』所収。(清水哲男)


January 2812001

 鯛焼の頭は君にわれは尾を

                           飯島晴子

ツアツの「鯛焼(たいやき)」を二人で分かち合う。しかも、餡の多い「頭」のところを「君」に与えている。それこそアツアツの情景だ。なんの企みもない句。飯島晴子の署名がなければ、「へえ、ご馳走さま」でもなく、簡単に見逃してしまうような句だろう。実は揚句は、亡き夫を偲んで書かれた句である。そういうことは、句集を読まないとわからない。前年の六月に、作者は夫と死別している。そのときには「藤若葉死人の帰る部屋を掃く」と、いかにも飯島さんらしい気丈な作風の一面を見せているが、死別後一年以上を過ぎた「鯛焼」の季節になって、いじらしいほどに気弱くなったようだ。新婚時代の、たぶん貧乏だった生活を思い出している。したがって、句の「われ」は作者ではない。「君」のほうが作者でなのあって、「われ」であった夫の優しさをさりげなく詠んでいるのだ。ところで、こうした説明がないと味わえない句は「よい作品ではない」とお考えの読者もおられるだろう。テキストがすべてのはずだ、と。お気持ちは、わかります。でも逆に、私はここに俳句のよさを認めたい気がしています。作者には、誰にだって個人的な事情があり、そのなかでの創作ですから、なるべくテキストだけでわかるように書きたいのはヤマヤマなれど、たまにはこんなふうに書きたくなる事情も発生する。その事情を殺して書くことも可能かもしれないが、揚句で言うと、わかる人だけにわかってもらえば「それでよし」としたほうが、より人間的な営みとなる。だから作者はきっと、この句を平凡なアツアツ句と読まれても、いっこうに構わないと思っていただろう。人には事情がある。俳句は、そのことを常に意識してきた文芸だ。『寒晴』(1990)所収。(清水哲男)


January 2912001

 受験生呼びあひて坂下りゆく

                           廣瀬直人

者は、高校の国語科教師だった。入学試験が無事に終わって、ほっとした気分で職員室から眺めた情景だ。三々五々校舎から出てきた受験生たちが、友だちを呼びあいながら、坂をくだって帰っていく。例年のことだが、作者はその一人ひとりの心細い胸の内を察して、みんなに合格してほしいという気持ちになっている。ああやって友だちを呼びあうことで、精いっぱい心細さをふっ切って帰っていく子供たちのなかで、四月から毎日この坂をのぼってくる子もいれば、そうでない子もいる。ちらりとそんな思いも去来して、受験生たちを見送っている。「坂下りゆく」は実景そのままではあるけれど、ついにこの坂とは無縁になるであろう受験生のほうに気持ちが傾いている表現でもあるだろう。人の情に溢れた句だ。入学試験制度の是非はいつの時代にも問われ、いまも論議はつづいている。しかし、どのような論議や改変が行われようとも、受験生にしてみれば、またその家族にしてみれば、論議や改変のプロセスのなかにある一つの時代的試行が「絶対の壁」となる。こうしてくれ、ああしてほしいなどは、通用しない。なんとしても、この理不尽を乗り越えなければならないのだ。宮沢賢治の口真似をしておけば、どうにも動かせない「真っ暗な大きな壁」として、制度は屹立するのである。この「絶対の壁」の屹立があって、揚句の味わいがある。ところで、中国で「鬼才」といえば夭折した詩人の李賀ひとりを指すに決まっているが(ちなみに「天才」といえば李白のこと)、彼は受験する以前に科挙のチャンスを唐朝から拒絶された。これまた「絶対の壁」であり、絵に描いたような制度の理不尽にはばまれた。出世を期待していた家族のもとにおめおめと舞い戻ったときの詩の一節に、「人間(じんかん)底事(なにごと)か無からん」とある。この世の中の(不快な)仕組みは、底なしの泥沼みたいじゃないか。鬼才にして、このうめき……。『帰路』(1972)所収。(清水哲男)


January 3012001

 冬帽子かむりて勝負つきにけり

                           大串 章

の「勝負」かは、わからない。将棋や囲碁の類かもしれないが、いわゆる勝負事とは別の次元で読んでみる。精神的な勝負。口角泡を飛ばしての言い争いというのでもなく、もっと静かで深い心理的な勝負だ。ひょっとすると、相手は勝負とも感じていないかもしれぬ微妙な神経戦……。とにかく、作者は表に出るべく帽子をかむった。独りになりたかった。負けたのだ。それも、勝負がついたから帽子をかむったのではない。帽子をかむったことで、おのずから勝負がついたことになった。「もう帰るのか」「うん、ちょっと……」。そんな案配である。そしてこのとき「冬帽子」の「冬」には、必然性がある。作者の心情の冷えを表現しているわけで、かむると暖かい帽子ゆえに、かえって冷えが身にしみるのだ。この後で、寒い表に出た作者はどうしたろうか。揚句には、そんなことまでを思わせる力がある。見かけは何の変哲もないような句だが、なかなかどうして鋭いものだ。ところで、俗に「シャッポを脱ぐ」と言う。完敗を認める比喩として使われるが、こちらは素直で明るい敗北だ。相手の能力に対する驚愕と敬意とが込められている。どう取り組んでみても、とてもかなわない相手なのである。逆に、揚句の敗北は暗く淋しくみじめだ。帽子を脱ぐとかむるの違いで、このようにくっきりと明暗のわかれるところも面白いと思ったと、これはもちろん蛇足なり。『天風』(1999)所収。(清水哲男)


January 3112001

 ガラス玉これ雪女の義眼です

                           橋本 薫

怪だとかお化けだとかの句には、作者固有の想像世界が具体的に表れていて面白い。実に、人さまざまである。昔から「雪女(雪女郎)」の句はたくさんあるが、「義眼」との取り合わせのものははじめて読んだ。極めて新しいスタイルの「雪女」の出現である。とりあえず、乾杯(笑)。なにせ相手は妖怪なのだから、この取り合わせが上手に効いているのかどうかは、判断がつかない。とすると、眼鏡をかけた「雪女」もいるのかなと、しばし楽しい空想に耽った。でも、眼鏡じゃ、そんなに恐ろしくはないな。「ガラス玉」とは、ビー玉みたいなものだろうか。作者はおそらく雪道に落ちている「ガラス玉」を見つけて、とっさに「雪女」を連想したのだろう。つまり、人を驚かす「雪女」のほうが逆に何かに驚いて慌てふためき、迂闊にも落としていったのだ。そう思うと、なんとなく気の毒でもあり、可笑しくもある。「雪女」伝承には地方によりいろいろあって、まずは若い女だ、いや老婆だと、年齢からして相当に開きがある。顔を見ると祟(たた)られるという地方もあるし、断崖などで後ろから突き飛ばすという物騒なのが出てくる土地もある。もちろん幻想だが、なかには幻想の正体を突き止めた人もいて、「錦鯉は夜がくるまでの雪女」と、詩人の尾崎喜八が自信満々に詠んでいる。私のイメージからすると、だいぶ違う。が、そこはそれ妖怪相手なのだから、違うと言い切れる根拠は何もない。今回少し調べたなかで、かなりゾッとしたのは次の句だ。「聖堂の固き扉に泣く雪をんな」(佐野まもる)。このすすり泣きは怖いぞ。『夏の庭』(1999)。(清水哲男)




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