芥川賞直木賞の四人とも読んでいない。名前を知ってるのは重松清のみ。これでも元文芸誌編集者。




2001ソスN1ソスソス18ソスソスソスソス句(前日までの二句を含む)

January 1812001

 湯婆などむかしむかしを売る小店

                           杏田郎平

婆は「ゆたんぽ」、古くは「たんぽ」とも読んだ。若い読者は見たこともないだろう。金属製の容器に湯を注ぎ、そのままでは熱いのでタオルなどでくるみ、寝床の足元に入れて使う保温器の一種だ。まろやかな暖かさが心地よい。揚句はいつごろの作句か不明だが、そんな忘れられた生活用品をいまだに商っている店をみつけて、思わず「ほお」と足を止めた。表には竹箒や物干し竿「など」が置いてあり、それこそ昔にはどこにでもあった雑貨屋(よろずや)である。「むかしむかしを売る」と言ったところに、作者の懐旧の念がくっきりと表れている。湯婆「など」を見ながら、それらを使った日々のことを懐かしんでいる。ところで、なぜ「湯婆」と表記するのだろうか。「湯」はわかるが「婆」が解せない。たいていの歳時記には『和漢三才図会』から引用しての説明がある。曰く「……大さ枕の如くにして小き口有り。湯を盛りて褥傍に置き、以て腰脚を暖む。因りて婆の名を得たり」と。だから(因りて)「婆」なのだということなのだが、「むかしむかし」の人相手ならばともかく、現代人には「因りて」と言われてもわかりっこない。むろん、私もだ。長い間知りたいと思っていたが、どの歳時記にも、この説明しか出てこない。これだけでは、説明にならない。しかし実は昨日になって、ようやく謎が解けた。昨秋上下二巻の岩波文庫として復刻された『増補俳諧歳時記栞草』(堀切実校注)のおかげである。この本は、かの曲亭馬琴が編纂し藍亭青藍が増補して1851年(嘉永四年)に刊行、長く「季寄せ」の最高峰とされてきた。揚句を書くについて、念のためにとめくってみたら、やはり本文には『和漢三才図会』の説明しかなかった。がっかりしながら、何気なく虫眼鏡でしか見えないような下欄の校注に目が行って、はっとした。あった。「婆 中国の俗語で婆(ボー)は女房・妻の意」と出ていたのだ。合わせて、次なる戯詩も。「小姫煖足臥、或能起心兵、千金買脚婆、夜夜睡天明」。すなわち「婆」とは、「ゆたんぽ」が妻と同衾する温みを思わせることからの命名なのであった。夏に使う「竹夫人」と、発想は同根だった。その意味では品川鈴子の「亡き夫に代はる温みの湯婆よ」が、よく「湯婆」の本意に添っている。「夫」は「つま」。この人は、ちゃんと「婆」の意味を知って詠んでいる。『合本俳句歳時記』(1997・角川書店)所載。(清水哲男)


January 1712001

 味噌汁におとすいやしさ寒卵

                           草間時彦

嘲だろう。他人の「いやしさ」を言ったのでは、それこそ句が卑しくなる。句品が落ちる。おそらくは、旅館での朝餉である。生卵はつきものだけれど、作者はそんなに好きではないのだろう。飯にかけて食べる気などは、さらさらない。かといって、残すのももったいない。というよりも、この卵も宿泊費の一部だと思うと、食べないのが癪なのだ。そこで生の状態を避けるべく、味噌汁に割って落とした。途端に、なんたる貧乏人根性かと、なんだか自分の「いやしさ」そのものを落としたような気がした……。食べる前から、後味の悪いことよ。鶏卵は、寒の内がもっとも安価だ。それを知っていての、作者の自嘲なのである。鶏の産卵期にあたるからで、昔から栄養補給のためには、庶民にとってありがたい食材だった。だから、盛んに食べてきた。栄養を全部吸い取れるようにと、生のままで飲むことが多かった。したがって俳句で「寒卵」と特別視するのは、べつに寒卵の姿に特別な情緒などがあるからではなく、多く用いられるという実用面からの発想だ。ところで、私の「いやしさ」は酒席で出る。お開きになって立ち上がりながら、未練がましくも、グラスに残っているビールをちょっとだけ飲まずにはいられない。『朝粥』(1979)所収。(清水哲男)

[紹介]上記をアップしてすぐに、当方の掲示板に次のような感想が寄せられました。「歳時記に『寒の卵は栄養分に富み・・・』とあるのを読みました。ですので、なんだか壮年を過ぎようとする男の人のあらがいと、戦中戦後の卵が貴重だった時代を経てきた己が身とをまとめて、習い性を、ちょっと露悪的に『いやしさ』と言ってみたような句の気がしました」(とびお)。考えてみて、とびおさんの解釈のほうが自然だと思いました。私のは牽強付会に過ぎますね。ま、自戒記念にそのままにしてはおきますが(苦笑)。とびおさん、ありがとうございました。


January 1612001

 わが過去に角帽ありてスキーなし

                           森田 峠

さに自画像を見る思い。といっても、作者は学徒動員世代だから「スキーなし」の環境は私などの世代とは大いに異なる。戦争中で、スキーどころではなかったのだ。私が大学に入ったのは、戦後も十三年目の1958年。しかし日本全体はまだ貧乏だったので、スキーに行けたのは、かなり裕福な家庭の子女だけだった。大学には一応戦前からのスキー部はあったが、部員もちらほら。同級生に羽振りのよかった材木屋の息子がいて、高校時代からスキーをやっていたという理由だけから、いきなりジャンプをやれと先輩から命令され、冗談じゃねえと止めてしまった。入学すると、とりあえずは嬉しそうに「角帽」をかぶった時代で、そんな戦前の気風をかろうじて体験できた世代に属している。だから、表層的な意味でしかないけれど、作者の気持ちとは共通するものがある。そんなこんなで、ついにちゃんとしたスキーをはかないままに、わが人生は終わりとなるだろう。べつに、口惜しくはない。ただ、もう一度はいて滑ってみたいのは、子供の頃に遊んだ「山スキー」だ。太い孟宗竹を適当な長さに切り、囲炉裏の火に焙って先端を曲げただけの単純なものである。ストックがないので、曲げた先端部分をつかんで滑る。雪ぞりの底につける滑り板の先端部分を、もう少し長くした形状だった。深い雪で休校になると、朝から夕暮れまで、飽きもせずに滑った。むろん何度も転倒するので、服はびしょびしょだ。服などは詰襟一つしかないから、夜乾かすのに母が大変苦労したようである。乾かなければ、明日学校に着ていくものがないのだから……。揚句の受け止め方には、いろいろあるはずだが、その受け止めようにくっきりと表れるのは、世代の差というものであるだろう。『避暑散歩』(1973)所収。(清水哲男)




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