一昨日の雪で裏通りはまだシャーベット状態。みんな、転ぶなよ。と言ってる奴がすってんころり。




2001ソスN1ソスソス22ソスソスソスソス句(前日までの二句を含む)

January 2212001

 お辞儀してマフラー垂れて地上かな

                           池田澄子

々とお辞儀をした拍子に、マフラーが垂れてしまった。ここまではよくあることだし、ここまででも一句できそうだ。が、作者は粘り腰。マフラーの先の「地上」を詠んだ。マフラーが垂れたことによって、お辞儀をした相手から一瞬ふっと意識がそれたのだ。ほんの短い時間だが、「ああ、ここは地上なのだ」と、妙に得心がいったのである。お辞儀という生真面目な仕草の途中だけに、なんとなく可笑しい。私たちの意識は連続しているようで、そうでもないらしい。時折、このようにぷつっと切れる。あるいは、落ちる。その切れや落ちを補うのが、身体にしみついた習慣であり動作であるだろう。そのおかげで、社会的対人的な交通がスムーズになる。礼儀作法は、そのための必須行為として発明され育てられてきた。だから、社会的に未成熟な子供らの集団では、こうはいかない。保育園や幼稚園の混乱は、たいていが「地上」に目が行きっぱなしになることから起きるのではあるまいか。ここでお辞儀の相手は、まさか作者が「地上」を発見して納得しているとは露ほども思わない。だから、余計にユーモラスに感じられる。ユーモラスではあるけれど、しかし、句は人間の本当のありようを的確にとらえている。ユーモアの核心は、いつだって「本当」に触れていなければならない。俳句は多く日常茶飯事をモチーフとするが、粘り腰で日常をつかめば、まだまだ詠む材料には事欠かない。そのサンプルが、揚句というわけである。「俳壇」(2001年2月号)所載。(清水哲男)


January 2112001

 おうおうといへど敲くや雪の門

                           向井去来

蕉が「関西の俳諧奉行」と言った去来の代表作。「敲く」は「たたく」。門をたたく者があるので、なかから「おうおう」と応えたが、聞こえないのか気が急いているのか、まだたたきつづけている。「雪の門」の「雪」の降りしきる様子が、何も書かれてはいないが、目に見えるようだ。さらには、「おうおう」と応える作者の声までもが聞こえてくる。家のなかをゆったりと戸口に出ていく作者と、表をドンドンとたたく訪問者との息遣いの対比が絶妙だ。ドアチャイムやドアホンなどなかった時代には、訪問者はみなこのように門をたたいた。あるいは、大声で来訪を告げた。元禄の昔はもちろんだが、戦後しばらくまでも同様だった。子供の頃、友人宅に遊びに出かけたときは、たいてい大声で名前を呼んだものである。「○○ちゃん、アソぼうよ」と、まことに直截な挨拶を送っていた。何度呼んでも応えがないときもあり、玄関の扉に耳をくっつけるようにしてナカの様子をうかがったりした。他家を訪問するときだけではなく、商店に入るときも挨拶が必要だった。山口の田舎では「ごめんさんせ」と入ったが、「ごめんください」の地方語だ。「ごめんさんせ」と言うのが、最初はなんとなく大人ぶっているようで、気恥ずかしかったことを覚えている。いまでは、たたくことも声を出すこともない。誰もがヌーッと、どこにでも入っていく。便利な世の中になったものだが、「ごめんさんせ」の世代にはどこか不気味だ。このところ我が家のチャイムは不調で、ボタンを押しても鳴らなかったりする。そんなときに必ず扉をたたくのは、宅配便の人。きっと「原点に戻れ」と、マニュアルに書いてあるのだろう。「おうおう」と応えても聞こえないので、扉を開けるまでたたいてくれる。ご苦労様です。(清水哲男)


January 2012001

 嚢中に角ばる字引旅はじめ

                           上田五千石

中(のうちゅう)の「嚢」は、氷嚢(ひょうのう)などのそれと同じ「嚢」。袋、物入れの意。この場合は、スーツケースというほどのものではなく、小振りで柔らかい布製のバッグだろう。旅先で必要なちょっとした着替えの類いのなかに「字引」を一冊入れたわけだが、これがまことに「角ばる」ので収まりが悪い。「字引」とあるが、歳時記かもしれない。「歳時記は秋を入れたり旅かばん」(川崎展宏)。こういう句を読むと、あらためて「俳人だなあ」と思う。俳人は、その場その場で作品を完成させていく。旅先では句会もあるし、いつも「字引」が必要になる。帰宅してから参照すればよいなどと、呑気に構えてはいられない。だから「角ばる字引」の収まりが悪い感覚は、俳人の日常感覚と言ってよいだろう。多く俳人は、また旅の人なのだ。その感覚が年末年始の休暇を経た初旅で、ひさしぶりによみがえってきた。さあ、また新しい一年がはじまるぞ。「角ばる字引」のせいで少しゆがんだバッグを、たとえば汽車の網棚に乗せながら得た発想かと読んだ。私は俳人ではないから、いや単なる無精者だから、旅に本を携帯する習慣は持たない。たまに止むを得ず持っていくときには、収まりは悪いは重いはで、それだけで機嫌がよろしくなくなる。何か読みたければ、駅か旅先で買う。そして、旅の終わりの日には処分する。めったに持ち帰ったことはない。そうやって、いちばんたくさん読んだのが松本清張シリーズである。『俳句塾』(1992)所収。(清水哲男)




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