曙引退。高見山や小錦などと違って、ついに何のために相撲を取っていたのか判らないという印象。




2001ソスN1ソスソス23ソスソスソスソス句(前日までの二句を含む)

January 2312001

 うつし身の寒極まりし笑ひ声

                           岡本 眸

妙な味がする。理由は、私たちが「感極まる」という言葉を知っているからだ。そして「感極まり」とくれば、後には「泣き出す」など涙につながることも知っているからである。しかし揚句では「寒極まり」であり、涙ならぬ「笑ひ」につながっている。だから、はじめて読んだときには、変な句だなあと思った。思ったけれど、いつまでも「笑ひ声」が耳についているようで離れない。もとより作者は「感極まる」の常套句を意識しての作句だろうが、この常套句を頭から排して読めば、そんなに奇妙とも言えないなと思い直した。戸外からだろうが、どこからか聞こえてきた「笑ひ声」に、寒さの極みを感じ取ったということになる。その声はたしかに笑っているのだけれど、暖かい季節とは違い、それこそ「感」(ないしは「癇」)が昂ぶっているような笑い声なのだ。これも「うつし身」であるからこそ、生きているからこその「笑ひ声」である。作者はここで一瞬、人間が自然の子であることを再認識させられている。字句だけを追えば、このあたりに解釈は落ち着くだろう。とはいえ、やっぱり「寒極まる」は気になる。字面だけの意味とは、受け取りかねる。「寒極まる」と「感極まる」の間を行ったり来たりしているうちに、ますます実際には聞いたこともない「笑ひ声」が耳について離れなくなる。奇妙な味のする句としか言いようがない。むろん、私は感心して「奇妙な味」と言っている。(清水哲男)


January 2212001

 お辞儀してマフラー垂れて地上かな

                           池田澄子

々とお辞儀をした拍子に、マフラーが垂れてしまった。ここまではよくあることだし、ここまででも一句できそうだ。が、作者は粘り腰。マフラーの先の「地上」を詠んだ。マフラーが垂れたことによって、お辞儀をした相手から一瞬ふっと意識がそれたのだ。ほんの短い時間だが、「ああ、ここは地上なのだ」と、妙に得心がいったのである。お辞儀という生真面目な仕草の途中だけに、なんとなく可笑しい。私たちの意識は連続しているようで、そうでもないらしい。時折、このようにぷつっと切れる。あるいは、落ちる。その切れや落ちを補うのが、身体にしみついた習慣であり動作であるだろう。そのおかげで、社会的対人的な交通がスムーズになる。礼儀作法は、そのための必須行為として発明され育てられてきた。だから、社会的に未成熟な子供らの集団では、こうはいかない。保育園や幼稚園の混乱は、たいていが「地上」に目が行きっぱなしになることから起きるのではあるまいか。ここでお辞儀の相手は、まさか作者が「地上」を発見して納得しているとは露ほども思わない。だから、余計にユーモラスに感じられる。ユーモラスではあるけれど、しかし、句は人間の本当のありようを的確にとらえている。ユーモアの核心は、いつだって「本当」に触れていなければならない。俳句は多く日常茶飯事をモチーフとするが、粘り腰で日常をつかめば、まだまだ詠む材料には事欠かない。そのサンプルが、揚句というわけである。「俳壇」(2001年2月号)所載。(清水哲男)


January 2112001

 おうおうといへど敲くや雪の門

                           向井去来

蕉が「関西の俳諧奉行」と言った去来の代表作。「敲く」は「たたく」。門をたたく者があるので、なかから「おうおう」と応えたが、聞こえないのか気が急いているのか、まだたたきつづけている。「雪の門」の「雪」の降りしきる様子が、何も書かれてはいないが、目に見えるようだ。さらには、「おうおう」と応える作者の声までもが聞こえてくる。家のなかをゆったりと戸口に出ていく作者と、表をドンドンとたたく訪問者との息遣いの対比が絶妙だ。ドアチャイムやドアホンなどなかった時代には、訪問者はみなこのように門をたたいた。あるいは、大声で来訪を告げた。元禄の昔はもちろんだが、戦後しばらくまでも同様だった。子供の頃、友人宅に遊びに出かけたときは、たいてい大声で名前を呼んだものである。「○○ちゃん、アソぼうよ」と、まことに直截な挨拶を送っていた。何度呼んでも応えがないときもあり、玄関の扉に耳をくっつけるようにしてナカの様子をうかがったりした。他家を訪問するときだけではなく、商店に入るときも挨拶が必要だった。山口の田舎では「ごめんさんせ」と入ったが、「ごめんください」の地方語だ。「ごめんさんせ」と言うのが、最初はなんとなく大人ぶっているようで、気恥ずかしかったことを覚えている。いまでは、たたくことも声を出すこともない。誰もがヌーッと、どこにでも入っていく。便利な世の中になったものだが、「ごめんさんせ」の世代にはどこか不気味だ。このところ我が家のチャイムは不調で、ボタンを押しても鳴らなかったりする。そんなときに必ず扉をたたくのは、宅配便の人。きっと「原点に戻れ」と、マニュアルに書いてあるのだろう。「おうおう」と応えても聞こえないので、扉を開けるまでたたいてくれる。ご苦労様です。(清水哲男)




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