日の光が春めいて、もうすぐ立春(2月4日)ですね。関東では風の季節に入り、これからが寒い。




2001ソスN1ソスソス26ソスソスソスソス句(前日までの二句を含む)

January 2612001

 猟銃も女も寝たる畳かな

                           吉田汀史

題は「猟銃」から「狩」につなげて冬。作者がいるのは、山の宿だ。たぶん、猟場に近い土地なのである。夕食もすんで、ひとりぽつねんと部屋にいる。「さて、寝るとしようか」。と、立ち上がったときの着想だろう。宿屋だから、これまでにいろいろな人が泊まった。「猟銃」を持った男も泊まったろうし、女の客もあったにちがいない。いずれもが、この同じ「畳」の上で寝たのである。その連想から「男」を消して「猟銃」を生かし、「女」をそのままにしたところが、揚句のミソだ。硬質な「猟銃」と柔らかい「女」身との取り合わせが、ほのかなエロティシズムを呼び起こす。もとより作者の頭の中のことではあるが、この見知らぬ「女」の生々しさはどうだろうか。作者とともに、ここで読者もあらためて「畳」に見入ってしまうことになる。揚句で、思い出した。原題は忘れたが、たしかジョセフ・ロージーの映画に『唇からナイフ』というのがあって、タイトルに魅かれて見に行ったことがある。女の「唇」と冷たい「ナイフ」。ポップ感覚に溢れた作品だった。『口紅から機関車まで』という本もあった。揚句は、こういった流れを引き継いだ発想と言えるだろう。一方では、たとえばマリリン・モンロー主演の『荒馬と女』が連想される。このタイトルが「美女と野獣」の系列にあることは明らかで、これもエロティシズムをねらったタイトルだが、「猟銃と女」には及ぶまい。生身と生身とではなく、いわば「機械」と「身体」が反射しあうとき、より「身体」は生き生きと不思議な輝きを帯びるのである。「俳句研究」(2001年2月号)所載。(清水哲男)


January 2512001

 寒の水喉越す辛口と思ふ

                           小倉涌史

中の水は、飲みにくい。というよりも、まずは飲む気もしない。でも、揚句の作者は微笑している。「うむ、こいつは辛口だ」と……。べつに名水などを味わうようにして飲んだわけではなく、単なる水道水を必要があって飲んだだけだろう。薬を飲むなどの必要からだ。「辛口」に引摺られて「ははーん、二日酔いだな」と受け取るのは早とちり。なぜなら、酔いざめの水には「辛口」も「甘口」もへったくれあったものではなく、ましてや「喉越す」味わいの微妙さは意識の外にある。悠長に、したり顔をして「辛口」なんぞと思う余裕はないはずだ。そういうことではなくて、作者は寒い場所で、まったくの素面(しらふ)でいやいや仕方なく水を飲んだのだと思う。意を決して飲んでみたら、意外にも喉元を通る感覚が心地よかった。酒で言えば「辛口」だと思った。寒中の水の味も存外いけるなと、作者は内心でにっこりとしたのだ。この体験の新鮮さに、ちょっと酔っていると言ってもよい。私は痛風(『小公子』の主人公・セドリックのおじいさんと同じ病気。これが自慢?!)持ちなので、医者からとにかく大量に水を飲めと言われている。多量の尿酸を一気に排泄するには、いちばん簡便な方法である。暖かい季節は苦にならないが、冬場はしんどい。早朝の一杯が、とりあえずはきつい。でも、年間を通してみて、水の味がするのはこの季節がいちばんではある。飲むときに、ちらっと逡巡する。その逡巡が、その意識が、口中や喉元に受けて立つ構えを作るからだろう。「寒」には「冷」か。たしかに、かっちりとした味を感じる。『受洗せり』(1999)所収。(清水哲男)


January 2412001

 梅林やこの世にすこし声を出す

                           あざ蓉子

まりに寒いので何か暖かそうな句はないかと、南国(熊本県玉名市)の俳人・あざ蓉子の句集をめくっていたら、この句に出会った。いつも不思議な句を作る人だが、この句も例外ではない。不思議な印象を受けるのは、「この世にすこし声を出す」の主語が不明だからだろう。「声を出す」のは作者なのか、梅林そのものなのか。あるいは、遠い天の声やあの世のそれのようなものなのだろうか。書かれていないので、一切わからない。わからないけれど、一読、寒中にぽっと暖かい光の泡粒が生まれたような気配がする。となれば、発語の主は梅の花なのか。でも、こんなふうにして、この句にあまりぎりぎりと主語を求めてみても仕方がないだろう。丸ごとすっぽりと句に包まれて、そこで何かを感じ取ればよいのだという気がする。多くあざ蓉子の句は、そんなふうにできている。作ってある。広い意味で言えば、取り合わせの妙を提出する句法だ。普通に取り合わせと言えば、名詞には名詞、あるいは形容詞には形容詞などと同一階層の言葉を取り合わせるが、作者の場合には、名詞(梅林)には動詞(「声を」出す)という具合である。だから、うっかりすると取り合わせの企みを見逃してしまう。うっかりして、動詞「出す」とあるので、冒頭に置かれた名詞(梅林)に、一瞬主語を求めてしまったりするのである。作者は、そんな混乱や錯覚を読者に起こさせることで、自身もまた楽しんでいる。まっこと「危険な俳人」だ。と、これはおそらく「天の声」なり(笑)。『猿楽』(2000)所収。(清水哲男)




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