L句

February 0322001

 鬼もまた心のかたち豆を打つ

                           中原道夫

戸中期の俳人・横井也有の俳文集『鶉衣』の「節分賦」に、節分の行事は「我大君の國のならはし」だが「いづくか鬼のすみかなるべし」と出てくる。元来が現世利益を願う行事なので、そんな詮索は無用なのだが、揚句では自分のなかにこそ鬼が住んでいるのだと答えている。鬼は、ほかならぬ自分の「心のかたち」なのだと……。だから豆を撒くのではなく、激しく「豆を打つ」ことで自分を戒めているのだ。真面目な人である。そして、こうした鬼観が真面目に出てくるのは、個人のありようを深く考えた近代以降のことだろう。也有もまた、とても作者ほどには真面目ではないが、世間から見ればいまの自分が鬼かもしれぬとも思い、こう書いた。「行く年波のしげく打よせて、かたち見にくう心かたくなに、今は世にいとはるる身の、老はそとへと打出されざるこそせめての幸なり」。「老」が「鬼」なのだ。てなことを炬燵でうそぶきつつ、そこは俳人のことだから一句ひねった。「梅やさく福と鬼とのへだて垣」。ところで東京辺りの豆撒きで有名なのは浅草寺のそれで、ここでは「鬼は外」と言わないのでも有名だ。言わないのは、まさか観音様のちかくに「鬼のすみか」があるはずもないという理由からだという。まさに現世利益追及一点張りの「福は内」の連呼というわけだが、だったら、もったいないから豆撒きなんかしないほうがよいのではないか。と、これは私の貧乏根性の鬼のつぶやきである。『歴草』(2001)所収。(清水哲男)


August 0182001

 晝顔やとちらの露も間にあハす

                           横井也有

みは「ひるがおやどちらのつゆもまにあわず」。、一見、頓智問答かクイズみたいな句だ。「どちらの露」の「どちら」とは何と何を指しているのだろうか。作者の生きた江戸期の人なら、すぐにわかったのだろうか。答えは「朝顔」と「夕顔」である。この答えさえ思いつけば、後はすらりと解ける。朝顔と夕顔には、天の恵みともいうべき「露」が与えられるが、炎天下に咲く「昼顔」には与えられない。すなわち「間にあハす」である。同じ季節に同じような花を咲かせるというのに、なんと不憫な昼顔であることよと同情し、かつそのけなげさを讚えている。もう少し深読みをしておけば、句は人生を「朝顔」「昼顔」「夕顔」の三期に分け、いわば働き盛りを「昼顔」期にあてているのかもしれない。露置く朝や夕に比べて、露にうるおう余裕もなく、がむしゃらに働かざるを得ない朱夏の候を、けなげな「昼顔」に象徴させている気配が感じられなくもない。いずれにしても、この謎掛けのような句法は、江戸期に特有のものだろう。現に近代以降、この種の遊び心はほとんどすたれてしまっている。近代人の糞真面目が、俳諧のおおらかさや馬鹿ばかしさの「良い味」を無視しつづけた結果である。芭蕉記念館蔵本『俳諧百一集』所載。(清水哲男)


May 3152009

 物申の声に物着る暑さかな

                           横井也有

申(ものもう)と読みます。今なら「ごめんください」とでもいうところでしょうか。いえ、今なら呼び鈴のピンポンなのでしょう。マンション暮らしの長い私には、人が声をあげて訪ねてくる場面には、ほとんど出くわしません。子供たちが小さな頃でさえ、「遊びましょ」という呼びかけを、聞いたことがありません。訪ねてきた人は、子供であろうと大人であろうと、いつも同じ大きさの「ピンポン」です。そこには特段の思い入れが入る余地はありません。この句を読んで思ったのは、「普段着」のことでした。昔はたしかに、家の中にいるときには夏でなくてもひどい格好をしていました。国ぜんたいが貧しかった頃ですから、子供だったわたしはそれほど気にしていませんでしたが、思い出せばいつも同じの、きたない服を着ていました。夏はもちろん冷房などはなく、この句にあるように、暑さに耐えるためには服を脱ぐしかありませんでした。今は真夏でも、人が訪ねてくればともかく、すぐに会える姿をしています。それがあたりまえのことではなかったのだと、この句はあらためて思い出させてくれます。一瞬の動作と、時代を的確に描ききっています。『日本名句集成』(1991・學燈社)所載。(松下育男)




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