拙著『さらば、東京巨人軍。』の発売日が16日に決まる。取材申し込みもちらほらと。何語るべき。




2001ソスN2ソスソス7ソスソスソスソス句(前日までの二句を含む)

February 0722001

 晴ればれと亡きひとはいま辛夷の芽

                           友岡子郷

春。吹く風はまだ冷たいけれど、よく晴れて気持ちの良い日。庭に出てみると、はやくも辛夷(こぶし)が芽吹いていた。新しい生命の誕生だ。「亡きひと」は辛夷の花が好きだったのか、あるいはこの季節に亡くなったのだろうか。ふと故人を思い出して、「晴ればれ」としたまぶしい空を辛夷の枝越しに見上げているのである。空は悲しいほどに青く澄みわたっているが、作者の胸のうちにはとても静かで明るい思いがひろがりはじめている。天上の「亡きひと」とともに、仲良く辛夷の芽を見つめているような……。辛夷の命名は、つぼみが赤ん坊の拳(こぶし)の形に似ていることから来たのだという。最初は「亡きひと」が「辛夷の芽」なのかと読んだが、つまり輪廻転生的に辛夷に生まれ変わったのかと思ったのだが、ちょっと短絡的だなと思い直した。そして「いま」の含意が、あの人は「いま」どうしているかなという、作者の「いま」の気持ちのありようを指しているのだと思った。輪廻転生は知らねども、生きとし生けるものはみな、生きかわり死にかわりしていく運命だ。このことは「いま」の作者の気持ちのように、むしろ爽やかなことでもある。やがて辛夷は咲きはじめ、ハンカチーフのような花をつける。花が風に揺れる様子は、無数のハンカチーフが天に向かって振られている様子にも見える。いかに天上が「晴ればれ」としているとしても、辛夷の花の盛りに「亡きひと」を思い出したとしたら、作者の感慨は当然べつの次元に移らざるを得ないだろう。そんなことも思った。大きく張った気持ちの良い句だ。『椰子・'99椰子会アンソロジー』(2000)所収。(清水哲男)


February 0622001

 佶倔な梅を画くや謝春星

                           夏目漱石

が意を得たり。その通りだ。と、私などは思うけれども、作者に反対する人も多いだろうなとは思う。「謝春星」は、俳人にして画家だった与謝蕪村の別号だ。あえて誰も知らない「謝春星」と漱石が書いたのは、「梅の春」にひっかけた洒落っ気からだろう。漱石は、蕪村の画く梅が佶倔(きつくつ)だと批評している。はっきり言えば、一見のびやかな感じの絵に窮屈を感じているのだ。「佶倔」は窮屈、ぎくしゃくしているという意味である。句の裏には、むろん商売で絵を画く蕪村への同情も含まれている。ひとたび蕪村の世界にとらわれた人は、生涯そこから抜け出せない。逆に、最初に入れなかった人は、ついに蕪村を評価できないで終わってしまう。これは、蕪村の俳句についてよく言われることだ。このページでも何度か書いたはずだが、蕪村は徹底的に自己の表現世界を演出した人だった。俳句でも絵画でも、常に油断のない設計が隅から隅まで仕組まれている。神経がピリピリと行き渡っている。だからこそ惚れる人もいるのだし、そこがイヤだなと感じる人も出てくる。漱石は、イヤだなと思った一人ということになる。実際、蕪村の絵を前にすると、あるいは俳句でも同じことだが、18世紀の日本人だとは思えない。つい最近まで、生きて活動していた人のような気がする。暢気(のんき)そうな俳画にしても、よく見ると、ちっとも暢気じゃない。暢気に見えるのは図柄の主題が暢気なせいなのであって、構図そのものは「佶倔」だ。演出が過剰だから、どうしてもそうなる。そのへんが下手な(失礼、漱石さん)水墨画を画いた作者には、たまらなかったのだろう。だから、あえて下手な句で皮肉った。この場合は上手な句だと、皮肉にも皮肉にならないからである。蕪村の辞世の句は「しら梅に明る夜ばかりとなりにけり」だ。百も承知で、漱石は揚句を書いたはずだ。『漱石俳句集』(1990)所収。(清水哲男)


February 0522001

 雪国の言葉の母に夫奪はる

                           中嶋秀子

い夫婦を訪ねてきたのは、作者自身の母親だろう。義母だとしたら、わざわざ俳句にするまでもない。夫と彼の母親が仲良く話していても当たり前で、「奪はる」とまでの感情はわいてこないはずだからだ。「奪はる」というのは大袈裟なようだが、作者が思いもしなかった展開になったことを示している。いまどきの軽い言葉を使うと、「ええっ、そんなのあり……」に近いだろうか。「夫」と「母」の間には、社交辞令的な会話しか成立しないと思っていたのが、意外や意外、よく通じ合う共通の話題があったのだ。つまり、母親の育った土地と夫のそれとが合致した。そこでたちまち二人は意気投合して、お国言葉(雪国の言葉)で盛んに何か話し合っている。別の土地で育った作者には、悲しいかな、入っていけない世界である。嬉々として話し合う二人を前にして、作者は母親に嫉妬し、憎らしいとさえ思っているのだ。第三者からすれば、なんとも可憐で可愛らしい悋気(りんき)である。ここで興味深いのは、作者の嫉妬が母親に向けられているところだ。話に夢中になっている夫だって同罪(!?)なのに、嫉妬の刃はなぜか彼には向いていない。私のか細い見聞による物言いでしかないが、男女の三角関係においては、どういうわけか女の刃は同性に向くことが一般的なようである。新聞の社会面に登場する事件などでも、女性が女性を恨むというケースが目立つ。たとえ男の側に非があっても、とりあえず男は脇にどけておいて、女性は女性に向かって真一文字に突進する。何故なのだろう。本能なのだろうか……。いけねえっ、またまた脱線してしまったようだ(反省)。『花響』(1974)所収。(清水哲男)




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