縺オ縺代→縺励%縺ョ句

February 0822001

 水槽に動く砂粒日脚伸ぶ

                           ふけとしこ

を飼っている。水槽が置いてあるのは窓際だろうか、玄関先あたりだろうか。ともかく、室内の採光に適した場所であるにはちがいない。真冬の間には見えなかった夕刻の時間にも、魚が動くたびに水槽の砂粒のわずかに動く様子が、はっきりと目撃できるようになった。まさに「日脚伸ぶ」の実感がこもっている。むろん魚の泳ぐ姿もよく見えているわけだが、魚を言わないで砂粒のかすかな動きを捉えたことで、より「日脚伸ぶ」の感覚が読者に伝わってくる。春近い光のありがたさを敏感に感じている作者の心の、微妙な瞬間を伝えていて巧みだ。もうすぐ、本格的な春がやってくる……。「日脚伸ぶ」という晩冬の季語は、人々の春待つ期待感を、具体的にすぱりと言いとめた季語である。私は長い間、面白い季語だなあと思ってきた。「日脚」とは、太陽の「光線」だ。光が伸びるというわけだが、単に届く距離が伸びるというだけではない。走るスピードを表現するときに「脚が伸びる」というように、距離感覚と時間感覚とを共有させた言葉だろう。実際には太陽光線の移動スピードが変わるはずもないのだが、春待つ心にしてみれば「早く」と「速く」とを重ね合わせて待望したいのだ。そんな待望の心が「日脚伸ぶ」には込められていると思う。ところでまたぞろ蛇足だが、なんと下品な言葉よと「待望」という表現を嫌ったのは、かの文豪・谷崎潤一郎であった。高校時代に『文章讀本』で読んだ。「ホタル通信」(第11号・2001年2月1日)所載。(清水哲男)


January 1512002

 上流や凍るは岩を押すかたち

                           ふけとしこ

語は「凍(こお)る」で冬。寒気のために物が凍ることだけではなく、凍るように感じることも含む。川の上流は自然のままなので、岩肌がゴツゴツと露出している。厳寒期になって飛沫がかかれば、当然まずは岩肌の表面から凍っていくだろう。そして、だんだんと周辺が凍ることになる。その様子を指して、凍っていく水が「岩を押すかたち」に見えるというのだ。「凍る」という現象を視覚的な「かたち」に変換したことで、自然の力強さが読者の眼前に浮かび上がってくる。なるほど、たしかに岩が押されているのだ。掲句を読んだ途端に、大串章に「草の葉に水とびついて氷りけり」があったことを思い出した。言うならば岩を飛び越えた飛沫が「草の葉」にかかった情景を、繊細な観察力で描き出した佳句である。岩を押す力強さはなくても、これもまた自然の力のなせるわざであることに変わりはない。再び、なるほど。たしかに草の葉はとびつかれているのだ。岩は押され、草の葉はとびつかれと、古来詠み尽くされた感のある自然詠にも、まだまだ発見開拓の期待が持てる良句だと思った。「ホタル通信」(22号・2002年1月8日付)所載。(清水哲男)


March 0932002

 荷造りに掛ける体重初うぐひす

                           ふけとしこ

つう俳句で「初うぐひす」といえば、新年の季語。めでたさを演出するために、飼育している鴬に照明を当てて人為的に鳴かせることを言う。が、掲句では情景からして、初音(はつね)のことと思われる。この春、はじめて聞く鴬の鳴き声だ。「初音かや忌明の文を書く窓に」(高木時子)。最近ではコンテナーや段ボール箱の普及に伴い、あまり荷造りする必要がなくなった。たぶん、作者は資源ごみとして出すために、古新聞を束ねているのではなかろうか。きちんと束ねるためには、膝で「体重」を掛けておいてから、しっかりと縛る。そんな作業の最中に、どこからか初音が聞こえてきた。「春が来たんだなあ」と嬉しくなって、もう一度ちゃんと体重を掛け直した……。体重に着目したところが、なんともユニークだ。情景が、よく見えてくる。私などがこうした情景を詠むとすれば、むしろ紐を縛る手の力に注意が行ってしまうだろう。言われてみれば、なるほど、荷造りとは体重と手の力の協同作業である。納得して、うならされました。初音で思い出したが、京都での学生時代の下宿先の住所は北区小山「初音」町。で、実家のあった東京での住所が西多摩郡多西村「草花」。優雅な地名に親しかったにしては、いまひとつ風流心に欠けている。情けなや。「ホタル通信」(2002年3月8日付・24号)所載。(清水哲男)


December 10122003

 襤褸着て奉公梟に親のゐて

                           ふけとしこ

語は「梟(ふくろう)」。留鳥だから四季を問わないが、冬の夜に聞く鳴き声は侘しくもあり凄みもあるので、冬の季語として定まったらしい。絵や写真で見る梟はどことなく愛嬌のある感じだが、実際は肉食する猛禽だ。鼠なども食べてしまうという。句はそんな生態をとらえたものではなく、あくまでも遠くから聞こえてくる独特な鳴き声に取材している。「襤褸(ぼろ)着て奉公」とは、いわゆる聞きなしだ。昔から人間は、動物の声を地域や聞く立場の差異によって、いろんなふうに聞きなしてきた。梟の声も単にホーホーホホッホホーホーと聞くのではなく、句のように聞いたり、あるいは「五郎助ホーホー」「糊つけて干せ」、なかには「フルツク亡魂」なんて怖いのもある。それでなくとも寂しい冬の夜に、こいつらの声はなお寂しさを募らせる。作者はそれを「襤褸着て奉公」と聞き、ああやって鳴いている梟にも親がいて、お互いに離れ離れの身を案じているのだと哀れを誘われている。スズメやカラスなど日頃よく見かける鳥に親子の情愛を思うのは普通だけれど、夜行性の不気味な梟にそれを感じたのは、やはり寒い季節に独特のセンチメントが働いたからなのだろう。その働きを見逃さず書き留めたセンスや、よし。他の季節であれば、同じように聞こえても、親子の情までにはなかなか思いがいたらない。奉公という雇用形態が実体を失って久しいが、戦後の集団就職は奉公につながる最後のそれだったと思う。中学を卒業してすぐに親元を離れ、町工場などに住み込みで働いた。子供はもちろん送り出した親も、どんなに寂しく心細かったことだろうか。そんな苦労人たちもみな、いまや高齢者の域に入った。そうした人々が読んだとしたら、掲句はとりわけて身に沁み入ることだろう。『伝言』(2003)所収。(清水哲男)


July 0772004

 おとうとをトマト畑に忘れきし

                           ふけとしこ

語は「トマト」で夏。フィクションととらえてもよいし、かつて実際にあったこととしてもよい。この句の良さは、実に的確に「おとうと」のありようが把握されているところだ。彼の年代は、学齢前のちょこまかと動き回るころだろう。お姉ちゃんの行くところには、どこにでも就いてきたがる。就いてくるのはよいのだが、なかなか言うことは聞かないし、自分の関心事にすぐに没頭して座り込んだりと、世話が焼ける。そしてときには、ぷいと断りもなく帰ってしまったりして、面倒を見きれないとはこのことだ。今日も今日とて、近くのトマト畑に就いてきた。お姉ちゃんはトマトをもぎに来たわけだが、彼は彼で勝手に畑を動き回っている。いつものことだから勝手にさせておき、さて帰ろうとして見回すと姿が見えない。小さいからトマトのかげにいるのかと少し探してみて、名前を呼んでもみたけれど、どうももう畑にはいないようである。また先に帰ったのだと軽い気持ちで家に戻ってみると、まだ帰ってはいないという。昼間だから、別に真っ青になる事態ではない。「まったく仕様がないなあ」。幼き日の作者であるお姉ちゃんは、ぷんぷんしながら迎えに行かなければならなかった。日盛りのトマト畑に来てみると、小さな麦わら帽子が揺れていた。遠い遠い思い出だ。でも、いまとなってはとても懐かしい。そんな郷愁を呼ぶ佳句である。実際の出来事だとしても、むろん大人になった「おとうと」は覚えていないだろう。よくあることだが、そこがまた作者の郷愁をいっそう色濃いものにするのである。『伝言』(2003)所収。(清水哲男)


September 0192004

 二通目の手紙大切いわし雲

                           ふけとしこ

語は「いわし雲(鰯雲)」で秋。「鱗(うろこ)雲」、「鯖(さば)雲」とも。「秋天、鰯先よらんとする時、一片の白雲あり、その雲、段々として、波のごとし、是を鰯雲と云」(曲亭馬琴編『俳諧歳時記栞草』)。秋を代表する美しい雲だ。掲句の「二通目の手紙」には、ちょっと迷った。最初は同一人から連続して配達されてきた二通目だろうかとも考えたが、いわし雲との取り合わせがいまひとつ不明確。抽象的なレベルでの相関関係も探ってみたけれど、探るうちに、素直に戸外での情景と読むほうが面白いと思えてきた。良く晴れた秋空の下、作者は手紙を投函しに行く途中である。何通かの手紙を手にしていて、そのうちの「二通目」が大事なのである。言われてみれば、私なども大事な手紙は数通の間に挟んで出しに行く。直接、表にはさらさない。宛名書きを汚してはいけないとか、何かに引っかけて破いてはいけないとか、そうした配慮が自然に働くからだ。そして、手紙を書くとは何事かの決着をつけるためであり、それを投函することで書いた側の一応の決着が着くことになる。深刻な内容のものならばなおさらではあるが、軽い挨拶程度の手紙でも、決着という意味では同じことだろう。句の「いわし雲」はもとより実景だが、心理的には決着をつける心地よさが反映されていると読んだ。『伝言』(2003)所収。(清水哲男)


March 1032006

 春昼のわれを包むに足りる紙

                           ふけとしこ

語は「春昼」。春の昼は、のんびりと明るい。それにしても大きな「紙」だなと思い、句だけを見て誇張表現だろうと受け取りかけたが、作者の弁を読んだら実物大であった。「この句は解いた包装紙のあまりの大きさに呆れて眺めていてできたものだった……」。いったい、何が包まれていたのだろうか。包まれている物を知っている作者が驚いているくらいだから、過剰包装ならぬ余剰包装ということになるのか、あるいは包んだ側の親切丁寧さの表れであるのか。それはともかく掲句の面白さは、この途方もない大きさの紙を前にした作者が、呆れ返りつつも「われを包む」と発想したところにある。これが自分ならどう反応するだろうかと想像してみて、私には自分を包むという考えはまったく閃かないだろうと思った。そしておそらく、このいわば咄嗟の発想は女性独特の感性から来ているのではないのかとも。物が包装紙だから言うのではないけれど、女性が衣服を身に着けるときの根底には、半ば無意識にせよ、身体を「包んで装う」ことにあるように思われるからだ。男の場合には、まずそれがない。男は「包む」というよりも「纏(まと)う」のである。たとえネクタイで首を締め付けようとも、身体を包んでいるという意識は皆無だ。むしろ身体を外界に曝している無意識の意識が強いので、着ている物がバラバラにならぬよう、とりあえず喉元でひと纏めにしているとでも言えば良いであろうか。それこそ誇張した言い方をしてしまったが、何気ないところに男女の違いが現れる例としても、興味深い一句であった。俳誌「船団」(第68号・2006年3月)所載。(清水哲男)


February 0122007

 鴨沢山呼んであります来ませんか

                           ふけとしこ

は普段でも目にする鳥だが、1月から4月にかけて越冬のためシベリア付近から飛来するという。マガモ、オナガ、コガモ、同じ鴨でもよく見ると首の長さや身体の大きさに違いがあることがわかる。春近い陽射しを受けて鴨達の羽根がきれいに光っている。池に群れている鴨は誰かに呼ばれて来ているわけではないが、こう書かれてみると鴨好きのあなたのために作者が集めてくれたみたいだ。こんな俳句が載った吟行案内のハガキを受けとったら、何を置いてもいそいそと出かけそう。例えば男の子がこの句の案内を見れば、レストランに可愛い女の子達が肩をぶつけあいながら座っている場面を想像するかもしれないし、狩猟好きのおじさんなら鉄砲をかついですぐさま出掛けて行きそうだ。読み手の立場で楽しい想像がいくらでも広がっていく。このふくらみは呼びかけの間の小休止が切れとして効果的に効いているからだろう。そして「鴨」は生活に密着したところで様々な成語になっているので、読み手の連想によって多義的な表情を見せることができる。動植物に親しい作者は、彼らの生態とともにその名前が多彩なイメージを生み出す秘密を知っているようだ。「仏の座光の粒が来て泊まる」『ふけとしこ句集』(2006)所収。(三宅やよい)


November 15112007

 練乳の沼から上がるヌートリア

                           小池正博

年前だったか小春日和の川べりを歩いているときに巨大ネズミのような生き物が川面にぬっと顔を突き出したので、心臓がずり落ちるほど驚いたことがある。後で調べてヌートリアという名前を初めて知った。関西や中国圏に多く住んでいるらしいが、もともと軍事用の毛皮をとるために移入して養殖された帰化生物ということだ。「ヌートリアと冬日を分かち合ひにけり」と大阪に住む俳人ふけとしこが詠んでいる。今は作物を荒らしたり堤防に巣穴を作ったりして危険ということで、駆除の対象になっているらしい。人間の勝手で移入されて、生態系に害を与えると駆除される。沖縄のマングースをはじめ、人間の浅知恵に振り回されて生きる動物たちも楽ではない。ねっとりと白く汚染された練乳のような沼から顔を出すヌートリア。まったく私たちの生きる世の中だって練乳の沼と同じぐらい底の見えない鬱屈に覆われた場所なのだから、お互いさまと言ったところか。沼から上がるヌートリアの姿に実在感がある。作者は連句に造詣の深い川柳作家。俳人の野口裕と立ち上げた冊子「五七五定型」からは同じ韻律をもつ詩型を従来にない視点で捉えようとする二人の意欲が伝わってくる。「五七五定型」(第2号2007/11/10発行)所載。(三宅やよい)


February 1822008

 子雀に槍や鉄砲や帷子や

                           ふけとしこ

語は「子雀(雀の子)」で春。春とはいっても晩春に近いころである。雀の子は孵化してから二週間ほどで巣立ちをし、その一週間後には親と別れる。ほとんど「世間」の右も左もわからぬうちに、独立してしまう(させられてしまう)というわけだ。そんな子雀の周囲に、帷子(かたびら)はともかく、槍や鉄砲が突然に出現するのだから、おだやかではない。目を真ん丸くしている子雀の様子が、可愛らしくもあり可哀想でもあり……。ご存知の読者もおられるだろうが、これらは三つとも「雀」という名前のついた雑草である。「雀の槍」、「雀の鉄砲」、「雀の帷子」。いずれも地味な花をつける。「烏瓜」に対応して「雀瓜」があるように、植物界での雀は小さいという意味で使われることが多いようだ。調べてみたら、雀の槍の「槍」は武器としてのそれではなくて、大名行列の先頭でヤッコさんが振っている毛槍のことだそうである。たしかに、形状が似ている。ただし、雀の鉄砲はずばり武器としてのそれを指し、同様にこれも形が似ていることからの呼称だという。子雀の前に三つの雀の名のつく植物を集めた野の花束のような一句。生命賛歌である。『草あそび』(2008)所収。(清水哲男)


May 2552009

 水音は草の底より蛇苺

                           ふけとしこ

のように田舎で育った人間には、ごく当たり前の情景ではあるが、それだけにいっそうの郷愁を呼び起こしてくれる句だ。細い山道を歩いていたりすると、どこからか水の流れる音が聞こえてくる。周囲には雑草が繁茂しているので、小さな流れは「草の底」にあって見えないのである。そんな山道には、ところどころに「蛇苺」が真っ赤な実をもたげている。この苺は食べてはいけないことになっていたからか、路傍に鮮やかでもどこかよそよそしく見える。しかも私には、蛇苺は日を遮られた薄暗い場所を好むという印象があるので、情景は一種陰気な情感を醸し出す。それがかえって、もうほとんど忘れかけていたかつての自分のあれこれまでをも想起させることになった。この情景をいま、たとえばビデオカメラで撮影してくっきりと蘇らせることは可能だ。でも、それは句のようには郷愁につながってはいかないだろう。なぜなら、ビデオカメラには水の音や蛇苺の姿を忠実に再生する力はあっても、あくまでもそれは人為的に切り取った断片的な情報以上の情報をもたらさないからである。このあたりに、文芸の力がある。句はたしかに情景を切り取ってはいるのだけれど、しかし、それは切り取った情景以上の時間や空間をいっしょに連れて来るものだからだ。掲句にも、切り取られた情景よりもはるかに多量の情報がつまっている。この点を肯定しなければ、第一、俳句のような短い様式は根本から成立しなくなってしまう。言葉とは、面白いものである。最近、蛇苺を見ない。『インコに肩を』(2009)所収。(清水哲男)


July 1672009

 明易し小樽に船の名を読んで

                           ふけとしこ

樽駅の改札を抜けると広い坂下に青い海と港が見える。小樽はこじんまりしてどこか懐かしい雰囲気を持った街。伊藤整、小林多喜二、左川ちか、この地に育った文学者も多い。未知の土地を訪れ早く目覚めた朝、宿のまわりを散策するのは旅の楽しみの一つだ。夏暁のひやりとした空気の中をまだ人気のない運河沿いを歩いているのだろう。つれづれに停泊した船の横腹に書かれた名前を拾い読む。句を読み下せば「読んで」は「呼んで」にも通じ、船の名を読むと同時に呼び掛けているようなあたたかさを感じる。船の赤い喫水線に寄せては返す波、そしてかもめの声。船を起点として朝日にきらめく港の風景がよみがえってくる。いま時分の北海道はいちばん良い季節。夏の小樽のすがすがしい空気まで感じられるようだ。『インコに肩を』(2009)所収。(三宅やよい)


October 22102009

 棒切れで打つ三塁打柿熟るる

                           ふけとしこ

さい頃は近所の友だちとよく野球のまねごとをした。まずは男の子に混じって、庭先や路地の奥でささくれのないすべすべの木切れを探す。なかなか好条件の棒切れに出合えず折れ釘で手を引っ掻いたり、指に棘が立つのはしょっちゅうだった。小遣いで買ったゴムボールはあたればあっというまに塀を越してホームラン。そのたびごとにチャイムをならしてボールを探させてもらった。打つ順番はなかなかこなくって外野でぼんやり眺めているとたちまちにボールは後ろに飛び去っていく。走者にボールを当てればアウトとか、あの木まで飛べば三塁打とか、そのときの人数や場所のサイズに合わせてルールを決めていたっけ。たわわに熟れる柿と三角ベース、そんな光景もセピア色の思い出になってしまったが、さて今の子供たちはこの気持ちのよい季節にどんな遊びを記憶に残すのだろう。『インコに肩を』(2009)所収。(三宅やよい)


March 0432010

 三月くる葦の根に泡貝に泡

                           ふけとしこ

月に入るとぐっと気温が上がり、植物の生育も活発になる。固くしまっていた木の芽もほころび始める。一日の平均気温が五度を上回るようになると、根から吸い上げた水分を幹から枝先へ運ぶようになると気象協会の説明書きにあった。だとすると、木の幹に耳をすませば幹の中を流れる水音が聞こえるかもしれない。掲句では水の中にある葦の根にぷくぷく出てくる銀色の泡と貝の泡が春の息吹を感じさせる。葦には水質浄化作用があり、コンクリートで固めてダメになった生態系回復のため、いったんは刈り込んだ葦を再び育て始める河口も多いと聞く。美しい写真とセットになったこの句の脇には「淀川べりを歩いた。葦の地下茎から芽が出初めていた。」と添え書きがある。植物にまつわるエッセイと俳句と写真がセットになったこの本はとても楽しい。小さな道端の草や花に心をとめる作者ならではの一冊で、その積み重ねが俳句や文章になってちりばめられている。『草あそび』(2008)所収。(三宅やよい)


April 2742010

 春の夜や朽ちてゆくとは匂ふこと

                           ふけとしこ

だやかな日が三日続かないのが春のならいとはいえ、今年は20度を超える日があったり、雪が積もるような朝があったり、ほんとうに妙な具合だった。しかし、いつしか季節はしっかりとあたたかさを増し、鍋に入れたままのカレーや、冷蔵庫に入れ損なった苺などを一晩でだめにしてしまうようになる。ことに果物は、最後の瞬間こそ自分の存在を主張するのだともいいたげに、痛んだときにもっとも香りが立つものだ。おそらく外の世界でも、木が朽ちるとき、鉄骨が錆びるとき、それぞれが持つもっとも強い匂いを発するのではないか。春の夜にゆっくり痛んでいくあれこれのなかには、もちろん我が身も含まれる。人間はどんな匂いになっていくのだろうか。そういえば傍らの飼い猫も九歳となり、猫界では高齢の域に入る。首のあたりに鼻を寄せ思いっきり深呼吸してみると、乾いた藁塚のようなふっくらいい匂いがした。『インコを肩に』(2009)所収。(土肥あき子)


April 2342012

 大阪に絹の雨降る花しづめ

                           ふけとしこ

花の散るころから初夏にかけては気候の移り変わりが激しく、疫病の流行する時期に当たり、疫病の霊を鎮め心身の健全を祈願する祭りが「鎮花祭(はなしづめのまつり)」「花しづめ」である。奈良・桜井市の大神(おおみわ)神社などのものが有名だが、大阪では、大阪天満宮でこの二十五日に行われる。そんな祭の日の雨を詠んだ句と解するのが真っ当な読みなのだろうが、私にはむしろ祭には無関係の句のように思われた。春爛漫を謳歌していた桜の花が散りはじめた大阪の街に、絹糸のような細くて清冽な雨が降ってきて、その雨が花々のたかぶりをなだめ鎮めているようだと読んだ。祭とは直接的には関係なく、降る雨がおのずから「花しづめ」の役回りとなり、花に象徴される大阪の活気や猥雑さを清らかに洗い拭っている。もっと言えば、一般的な大阪のイメージを払拭して、静かで落ち着いた大阪を差し出してみせているのだ。すなわち、大阪という都市の奥深さを抒情的に表現した句と思うのだが、どんなものだろうか。『鎌の刃』(1995)所収。(清水哲男)


May 1352013

 糸底にサンドペーパー緑さす

                           ふけとしこ

い間茶碗などを買ってないから、すっかり忘れていた。新しい陶器類を求めると、糸底がざらついているものがあって、そのまま使うとテーブルを傷つけたり、重ねた他の食器を引っ掻いてしまうことがある。「糸底」とは「本体をろくろから糸を使って切り離すところから」陶器の底を言う。「糸尻」とも。そのざらつきを滑らかにするために、サンドペーパー(紙やすり)で糸底を磨くのである。気の利いた店ならば買ったときに磨いてくれるが、句の場合はどうだったのだろうか。「緑さす」とは若葉影が映ることだから、新緑の美しい屋外の陶器市での情景かもしれない。いずれにしても、真新しい陶器の肌に若葉の色彩が微妙に写り込んで細かく揺れている。もうそれを見ているだけで、「夏は来ぬ」の清々しくも初々しい感情がわいてくるのである。「ほたる通信II」(2013年5月)所載。(清水哲男)


September 1992013

 雀蛾に小豆の煮えてゐる匂ひ

                           ふけとしこ

に「イモムシ」と呼ばれるものは雀蛾の幼虫のようである。雀蛾の幼虫は地中にもぐって蛹になり、独特の三角形の翅をもつ成虫に羽化するという。以上はネットで得た雑駁な情報だけど、何より「雀蛾」という名前が魅力的だ。色鮮やかな蝶にくらべ夜間活動する蛾は色も地味であまり歓迎されない。掲句では、迷い込んだ雀蛾が台所のどこかに止まっているのだろう。蛾は蝶のように翅をたたまない。水平に翅を広げたままじっとしている雀蛾は壁に展翅されたように見える。そんな雀蛾に暗赤色の小豆が煮える匂いがしみ込んでゆく。何気ない日常の情景だが夏から秋へとゆっくり変わってゆく夜の時間と秋の色彩を感じさせる佳句だと思う。「ほたる通信 II」(2012.10)所収。(三宅やよい)


October 03102015

 今何をせむと立ちしか小鳥くる

                           ふけとしこ

ビングのテーブルに座っていて、ちょっとした用事を思いついてキッチンへ向かった時、庭の木の実を啄んでいるきれいな色の小鳥に目が留まる。しばらく見ているがそのうち、ここに立っているのは小鳥を見るためじゃなかったはず、と気づくがさて何だったか。最初はそんな風に思ったのだがだんだん違う気がしてきた。例えば、何かしようとして立ち上がり、ちょっと他のことに気を取られているうちに、待てよそもそも何が目的だったのかやれやれ、としばし立ち止まって考えている作者。その時、小鳥の声が聞こえたかちらりと姿が見えたのか、秋が深まってきたことを感じながらふと和らいだ心地がしたのではないか。そんなやさしさのにじむ、くる、なのだろう。「ほたる通信 II」(2015年9月号)所載。(今井肖子)


July 0772016

 法善寺にこいさん通り梅雨の月

                           ふけとしこ

日は七夕だけど、この時期星々がまともに見えたことがない。どちらかと言うと雨っぽい空に恋人たちの逢瀬がはばまれる感じである。大阪で「こいさん」は末娘を表すようだけど、今はどのくらい使われているのだろう。「月の法善寺横丁」の歌詞は年配の方なら、ああ、とうなずく有名な歌だが、今どきさらしに巻いた包丁を肌身離さず修行に出るような板前もいないし、その帰りを待つこいさんもいないだろう。水かけ不動の法善寺で月を見上げれば厚い雲に覆われた梅雨空にぼんやりと白い月が透かし見える。法善寺もこいさん通りもその響きが時代に置き去りにされた遠さがあり、その距離感が「梅雨の月」に表されているように思う。「ほたる通信」2016年6月「46号」所収。(三宅やよい)




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