インフルエンザが不気味なくらいに大人しい。結構なことだが何故なのか。なんでも「何故」と問う病い。




2001ソスN2ソスソス10ソスソスソスソス句(前日までの二句を含む)

February 1022001

 忌籠の家の竹馬見えてをり

                           波多野爽波

集では、この句の前に「病篤しと竹馬の子の曰く」が置かれている。気にかかっている病人の様子を、その家の竹馬の子に「おじいちゃん、どんな様子かな」などと、さりげなく尋ねたときの答えだ。こういうことは、よくある。同じ家人でも、大人に尋ねるのは気が重い。それに、見舞いに行くほどの親しい間柄でもない。道で会ったら、会釈を交わす程度の町内の知り合いだ。「曰く」という表現には、竹馬に乗った子供が作者よりも高い位置から病状を告げた様子が見えて妙。さて、揚句ではその病人が亡くなった。通りかかった家の中はしいんとしており、玄関脇に子供の竹馬が立て掛けられているのが見える。ただこれだけの描写だけれど、冷え冷えとした竹馬が忌籠(忌中)の家の様子を雄弁に物語っている。なかでも、いつものように竹馬で遊べない子の神妙な表情までが見えてくるようではないか。このとき、竹馬はまさに「悲しき玩具」である。竹馬遊びは古くから行われていたようで、西行の「竹馬を杖にも今日は頼むかな童遊びを思出でつつ」は有名だ。ただし、この竹馬は笹の葉のついた竹を馬に見立てて、またがって遊んだものらしい。いまのような竹馬は、近世の産物か。冬の季語とされているが、この理由もよくわからない。「竹八月に木六月」といって、竹の伐りどきは秋口である。伐採されなかったり廃材化した無用の竹で作ったので、必然的に冬の遊び道具になったのかもしれない。なお「忌籠」は「いごもり」。『一筆』(1990)所収。(清水哲男)


February 0922001

 東風ほのかメランコリックな犬とゐて

                           小倉涌史

風駘蕩というときの風とは違って、一般的に「東風(こち)」はまだやや荒い感じの春先の風を言う。しかし揚句では、それが「ほのか」と言うのだから、むしろこの時季にしては柔らかい風を指している。本格的な春の訪れを、どことなく予感させる風だ。なんとなく嬉しい気分で、作者は犬といっしょにいる。散歩だろうか、それとも餌をやっているのだろうか。いずれにしても、ミソは「メランコリックな犬」だ。犬を飼った経験はないが、言われてみると「メランコリックな犬」はいるような気がする。憂鬱そうな犬、沈痛な物思いにふけっているような犬……。犬にも「春愁」の感があるような……。飼っていないので、たまに見かける犬の印象でしかないけれど、飼い主の作者に言わせれば「おい、どうしたんだよ」という気持ちなのだろう。でも、わざわざ「メランコリックな」と横文字で表現したところからすると、事態はさして深刻ではない。すなわち、見慣れている不機嫌に「またか」と、ちょいと洒落れた横文字の衣装を着せてみたというところか。着せる気になったのは、作者自身はもう「東風ほのか」だけで上機嫌だからだ。体調も、すこぶるよくて、ほとんど「♪何をくよくよ川端柳」の心地だからである。作者は、ここで「メランコリックな犬」をしり目に、一つ大きく伸びくらいしたかもしれない。そして犬はといえば、あいかわらず「ムーッ」としている。このコントラストを想像すると、自然に微笑がわいてくる。何度か書いたが、小倉さんは当ページ作りの協力者だった。揚句を作ってから、ほぼ二年後に他界された。享年五十九歳。しかし、そのことで私自身が揚句にメランコリックになりすぎるのは、かえって失礼になるだろう。『受洗せり』(1999)所収。(清水哲男)


February 0822001

 水槽に動く砂粒日脚伸ぶ

                           ふけとしこ

を飼っている。水槽が置いてあるのは窓際だろうか、玄関先あたりだろうか。ともかく、室内の採光に適した場所であるにはちがいない。真冬の間には見えなかった夕刻の時間にも、魚が動くたびに水槽の砂粒のわずかに動く様子が、はっきりと目撃できるようになった。まさに「日脚伸ぶ」の実感がこもっている。むろん魚の泳ぐ姿もよく見えているわけだが、魚を言わないで砂粒のかすかな動きを捉えたことで、より「日脚伸ぶ」の感覚が読者に伝わってくる。春近い光のありがたさを敏感に感じている作者の心の、微妙な瞬間を伝えていて巧みだ。もうすぐ、本格的な春がやってくる……。「日脚伸ぶ」という晩冬の季語は、人々の春待つ期待感を、具体的にすぱりと言いとめた季語である。私は長い間、面白い季語だなあと思ってきた。「日脚」とは、太陽の「光線」だ。光が伸びるというわけだが、単に届く距離が伸びるというだけではない。走るスピードを表現するときに「脚が伸びる」というように、距離感覚と時間感覚とを共有させた言葉だろう。実際には太陽光線の移動スピードが変わるはずもないのだが、春待つ心にしてみれば「早く」と「速く」とを重ね合わせて待望したいのだ。そんな待望の心が「日脚伸ぶ」には込められていると思う。ところでまたぞろ蛇足だが、なんと下品な言葉よと「待望」という表現を嫌ったのは、かの文豪・谷崎潤一郎であった。高校時代に『文章讀本』で読んだ。「ホタル通信」(第11号・2001年2月1日)所載。(清水哲男)




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