東京は春の強風の季節に入ったようだ。コンタクトの目が痛いので頻繁にタクシーに乗る。物入りなこと。




2001ソスN2ソスソス17ソスソスソスソス句(前日までの二句を含む)

February 1722001

 ときをりの水のささやき猫柳

                           中村汀女

かい地方では、もう咲いているだろう。山陰で暮らしていた子供のころには、終業式間近に開花した。まだ、ひと月ほど先のことだ。「猫柳」は一名「かわやなぎ」とも言うように、川辺に自生する。咲きはじめると、川辺がずうっとどこまでもけむるように見え、子供心にも一種の陶酔感が芽生えた。川(というよりも、小川)は重要な遊び場だったので、猫柳はその遊び場が戻ってくる先触れの花であり、そんな嬉しさも手伝ってきれいに見えたのかもしれない。どなたもご存知の文部省唱歌「春の小川」(高野辰之作詞)は、フィクションなんかじゃなかった。とくに二番の「……えびやめだかや 小ぶなの群れに きょうも一日 ひなたでおよぎ」あたりは、現場レポートそのものである。咲き初めた「猫柳」をかきわけて、小川をのぞきこむ。と、いるいる。「えびやめだか」たちが。まだ水は冷たいので入りはしないけれど、のぞきこみながら、何だかとても嬉しい気分になったものだ。揚句の作者は大人だから、私のようにのぞきこんだりはしていない。川沿いの道を、猫柳を楽しみながら歩いている。歩いていると、ときおり「水のささやき」が聞こえてくる。ただそれだけの句であるが、情景を知る者には、なんと美しく的確に響いてくることだろう。作家の永井龍男が戦争中に、いかに「汀女の句になぐさめられたことか」と書いている。わかるような気がする。『女流俳句集成』(1999)所載。(清水哲男)


February 1622001

 菜の花を挿すか茹でるか見捨てるか

                           櫂未知子

村暮鳥の「いちめんのなのはな」ではないが、古来「菜の花」は黄金世界のかたまりとして捉えられ好まれてきた。揚句では、なかの二三本をいわばズーム・アップしていて、そこにまず新しさがある。そして「見捨てる」という強い表現に、私は魅力を覚えた。「見捨てる」は「見て放っておく」ことではあるが、単に「見過ごす」のではない。相手の状態がどうであれ、たとえ人が眼前で溺れていようとも、我には関わりなきものと冷たく「見放す」のだ。ところがこの場合には、相手が「菜の花」だから、べつに助けを求めているわけでもないし、作者に何かを訴えているわけでもない。それを承知で、作者はあえて「見捨てるか」とつぶやいてみた。つまり、作者は相手に対して手前勝手なことを言っている。「見捨て」られた側は何も感じない理屈であり、そこに揚句の滑稽がにじみ出てくる。手前勝手に力み返っている面白さだ。もっと言えば、はじめからいちゃもんをつける気分で「菜の花」に対しているかのようでもある。でも不思議なのは、読後感にどこか作者の「颯爽(さっそう)」たる勢いが残るところだ。理屈では空回りしている句なのに、何故だろうか。この句は、岡田史乃の俳誌「篠(すず)」(第99号・2001)で知った。そこで史乃さんは「(従来の花を大切にというような)心をかなぐりすてて『菜の花』へ正面衝突している」と書いている。たしかに、そういうふうにも読める。尻馬に乗って付け加えれば、断定的な物言いの出来がたい現代にあって、空回りであれ何であれ(そんな思いはかなぐりすてて)、きっぱりと「見捨てるか」と言い放ったこと、それ自体に私は「颯爽」を感じているのかもしれない。そう考えると、なかなかに厄介な句だ。ところで「菜の花」には「菊の花」などと同じように、食用とそうでない品種とがある。見分けのつかない(だから、この句ができた)作者は、どうしたろうか。まさか「茹で」たりしなかったでしょうね。わからないときには、さっさと「見捨てる」がよろしい(笑)。『蒙古斑』(2000)所収。(清水哲男)


February 1522001

 宿の灯や切々闇に芽吹くもの

                           清水哲男

うか「切々」は「きれぎれ」と読まずに「せつせつ」と読んでください。さて、年に一度の誕生日、したがって「増俳」も年に一度の無礼項なり(笑)。自註をくっつけるほど偉そうに振る舞える句でもないけれど、ちょっとコメント。なぜ、日本旅館にしても洋風のホテルにしても、部屋の燈火はあんなに薄暗いのだろうか。宿には夕暮れ以降に入ることが多いので、特にその印象が強い。玄関辺りの明るさにやれ嬉しやと思ったのも束の間、通された部屋の灯が薄らぼんやりしているのにはがっかりする。まともに新聞も読めやしない。仕方がないので点けられる電気はみんな点けて、ついでに見たくもないテレビまで点けてみるが、まだ暗い。こういう不満がわいてくるのは、むろん一人旅のときである。暗いから、いよいよ一人旅の侘びしさはつのってしまう。人間とは妙なもので、こういうときには、なんとなく窓を開けてみたりする。表にはボオッと水銀灯(もどき)が灯っていたりするけれど、ほとんど何も見えないことくらい、あらかじめ承知している。だけど、開けてみたくなる。開けてみて、あちこち見回したりする。なんにも見えっこないのにね。で、ここからが句のテーマ。外の様子は見えないが、四季それぞれの季節感は流れ込んでくる。春夏秋冬、窓を開ければその土地ならではの自然の「気」が風に乗ってくる。揚句では、そんな早春の「気」をつかまえたつもり。やがてはむせ返るような若葉の季節への予兆が、ここにある。そう思うと、やはり「芽吹き」は「切々」でなければなるまい。窓を閉めて薄暗い燈火の下に戻ると、ますますその感は深くなる。生命賛歌であると同時に、晩年に近いであろう自分の感傷的な切なさとを、それこそ「切々」と重ね合わせてみた次第。しょせん人生なんて「一人旅さ」の、つもりでもある。最近は、年間二百句ほど作っている。「自薦句」にしてはいやに古風なのだけれど、最新句なので、あえてお目汚しは承知の上で……。(清水哲男)




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