戯れにマシンを触るべからず。どうやらHDが損傷したらしい。代替機を引っぱり出し、やっとアップ。




2001ソスN2ソスソス25ソスソスソスソス句(前日までの二句を含む)

February 2522001

 蒼白な火事跡の靴下蝶発てり

                           赤尾兜子

つう「蝶発(た)てり」といえば、明るい希望や期待の心などを象徴するが、揚句の蝶の姿はあくまでも暗い。火事場に残された焼け焦げて汚れた靴下のように「蒼白な」蝶が、ふらふらっと哀れにも舞い上がったところと読む。それでなくとも暗い蒼白な「火事跡」に、追い討ちをかけるようにして蝶の暗い飛翔ぶりを足している。「これでもか」と言わんばかりだ。このとき、読者には少しの救いも感じられない。やりきれぬ。このような感受性や叙情性は、詩人で言えば萩原朔太郎のそれに近いだろう。極端に研ぎ澄まされた神経が、ことごとく世間一般の向日性と摩擦を生じてしまうのだ。作者は新聞記者だったから、結局はどこかで世間との折り合いをつけなければならぬ職業であり、かといってみずからの感受性を放擲するわけにもいかず、そこで「蒼白」になりながら俳句を書いていたのだと、これは私の偏見かもしれないが……。でも、兜子はなぜ死ぬ(自殺・1981)まで俳句に執着したのだろうか。私の長年の素朴な疑問だ。揚句一句だけからでもわかるが、この程度の中身ならば詩ではむしろ凡庸なレベルにダウンする。逆に言えば、俳句に執着したがために、この内容で止まってしまったと言うべきか。詩で言えることを、無理に俳句で言おうとしているとしか思えない。だったら、俳句でないほうがよかったのではないか。なぜ俳句だったのか。その意味で、兜子にかぎらず、私がハテナと思う「俳人」は少なくない。眺めていて、詩の書き手は比較的俳句や短歌を読むが、ほとんどの俳人は詩を読まないようだ。関係がありそうな気がする。『虚像』(1965)所収。(清水哲男)


February 2422001

 春の波見て献立のきまりけり

                           大木あまり

者がいるのは海辺だろうか、それとも川や池の畔だろうか。のどかな波の様子を眺めている。「ひらかなの柔らかさもて春の波」(富安風生)。見ているうちに、はたと「献立」を思いつき、それに決めた。「献立」の中身は何も書いてないけれど、どんな料理かをちょっと知りたくなる。想像するのは楽しいが、案外「春の波」のイメージとは遠くかけ離れた献立かもしれない。えてして「思いつき」は、思いがけないきっかけから生まれ、とんでもない方向に飛んでいく。揚句のテーマは、むろん献立の中身などではない。「きまりけり」の安心感、ほっとした気持ちそのことにある。こういう句を、昔の男はいささか差別的に「台所俳句」と称したが、台所にこそ俳句の素材がぎっしり詰まっていることを、浅薄にも見逃していたわけだ。反対に、たとえば画家は洋の東西を問わず、早くから台所に注目していた。私自身も、詩のテーマや素材に困ると、いまだに台所を見回す。料理の素材である野菜や魚、道具である鍋やフライパンの出てくる詩を、いくつ書いたか知れないほどだ。ただ私のように日常的に献立を考えない人間は、素材や道具には目が行き想像力を働かせても、揚句のような気持ちに届くことは適わない。作者は台所を、いわば戸外に持ちだしているのであり、つまり台所を自身に内蔵しているのでもあって、ここに私との大きな差がある。それにしても、主婦(とは限らぬが)の三度三度の「思いつき」能力には感心する。そこらへんのプロよりも、はるかに凄い。プロは答えの見えたジグソー・パズルを組むだけでよいのだが、主婦はそのたびに白紙に絵を描いていくのだから。『火球』(2001)所収。(清水哲男)


February 2322001

 煙草屋の娘うつくしき柳かな

                           寺田寅彦

いした句ではないけれど、たまには肩の凝らない句もいいものだ。「うつくしき」は「娘」と「柳」両方にかけてある(くらいは、誰にでもわかるけど)。この娘さん、きっと柳腰の美人だったのだろう。その昔の流行歌に「♪向こう横丁の煙草屋の可愛い看板娘……」とあるように、なぜか(失礼)煙草屋の娘には美人が多かった。というよりも、実際はなかなか若い娘と口を聞く機会がなかった時代だから、客としておおっぴらに話のできた煙草屋の娘がモテたと見るべきだろう(またまた失礼)。芽吹いてきた柳は、うっとりするほど美しい。したがって、春の季語となった。かの寺田寅彦センセイから、揚句の娘さんは柳と同じように「うつくしき」と詠んでもらったわけで、曰く「もって瞑すべし」とはこのことだ。それがいまや、煙草屋から看板娘が消えたのもとっくのとうの昔のことで、さらには煙草屋の数も激減してしまい、自動販売機が不愉快そうにぼそっと突っ立っているばかり。とくれば、世に禁煙者が増殖しつづけているのも当たり前の成り行きか。ところで一方の柳だが、さすがに美しさを愛でた句は多いのだけれど、なかには其角のように「曲れるをまげてまがらぬ柳かな」と、その性に強情を見る「へそ曲がり」もいた。極め付けは、サトウ・ハチローの親父さんである作家・佐藤紅緑が詠んだ「首縊る枝振もなき柳かな」かな。でも、こんなに言われても、柳は上品だからして「だから、なんだってんだよオ」などと、そんな下卑た口はきかないのである。柳に風と受け流すだけ。(清水哲男)




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