デフレの波がひたひたと。人は経済によって生くるにはあらず。とはいえ、初体験のデフレの不気味さ。




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March 0432001

 瞼の裏朱一色に春疾風

                           杉本 寛

の強風、突風である。とても、目を開けていられないときがある。思わずも顔をそらして目を閉じると、陽光はあくまでも明るいので、「瞼の裏」は「朱(あけ)一色」だ。街中でのなんでもない身のこなしのうちに、くっきりと「春疾風(はるはやて)」のありようを射止めている。簡単に作れそうだが、簡単ではない。相当の句歴を積むうちに、パッとそれこそ疾風のように閃いた一句だ。ちなみに天気予報などで使われる気象用語では、風速7メートル以上を「やや強い風」と言い、12メートル以上を「強い風」と言っている。コンタクトを装着していると、7メートル程度の「やや強い風」でも、もうアカん(笑)。その場でうずくまりたくなるほどに、目が痛む。だからこの時季、街角で立ち止まって泣いているお嬢さんに「どうしましたか」などと迂闊に声をかけてはいけない。おわかりですね。この春疾風に雨が混じると、春の嵐となる。大荒れだ。ところで私事ながら、今日は河出書房で同じ釜の飯を食い、三十年以上もの飲み仲間であった飯田貴司君の告別式である。享年六十一歳。1960年代の数少ない慶応ブントの一員にして、流行歌をこよなく愛した心優しき男。ドイツ語で喧嘩のできた一世の快男子よ、さらば。……だね。天気予報は、折しも「春の嵐」を告げている。すぐに思い出すのは石田波郷の「春嵐屍は敢て出でゆくも」であるが、とうていこの句をいま、みつめる心境にはなれない。まともに、目を開けてはいられない。『新歳時記・春』(1989・河出文庫)所載。(清水哲男)


March 0332001

 終夜潮騒雛は流されつづけゐむ

                           松本 明

語は「雛流し」。雛祭は元来が女の子の息災を祈る行事なので、すべての厄を飾った雛に移して(肩代わりしてもらって)、なるべく早く川や海に流した。三月三日の夕刻には、もう流してしまう地方も多かったと聞く。「捨雛(すてびな)」という感傷を排除した言い方もあるけれど、なんといっても人の形をしたものを流すのだから、たとえ紙の雛でも、流す人には複雑な思いが涌くだろう。考えてみれば、哀しくも残酷な風習だ。作者は夕方に見て戻り、流された雛の哀れが鮮烈に、いつまでも目に焼きついて離れないのだ。「終夜潮騒」が耳につき、熟睡できない。うとうととしかけては、また目覚めてしまう。その目覚めには、流されていった雛たちへの気掛かりが伴う。「流されつづけゐむ」には、作者のそうした気持ちがこもっていると同時に、遠くの暗黒の波間になお「流されつづけ」ている雛の姿を強く想像させる力がある。実際には「さかさまに水ごもりたまふ雛かな」(阿波野青畝)のように、ほとんど流れることもなく沈んでしまっているのかもしれない。「捨雛のうちふせありぬ草の上」(二宮英子)のように、早々に岸辺に打ち上げられてしまっている雛もあるだろう。しかし、そうは思いたくないというのが、人情だ。作者の詠んだ雛たちは、きっとどこまでもどこまでも流れていったことだろう。『新歳時記・春』(1989・河出文庫)所載。(清水哲男)


March 0232001

 春潮を入れて競艇場休み

                           星野恒彦

ースの開催日には、けたたましいエンジン音で喧騒を極める競艇場も、休みとなれば静かなものだ。水面は、次第に藍色を濃くしてきた春の潮をたっぷりと入れて、明るく輝いている。騒がしいのが常識の場所だけに、句景の静けさが際立つ。「ああ、春だなあ」という作者の感慨が、じかに伝わってくるようだ。素材の妙。好奇心から、たいていの遊び事や賭け事には手を出してきたが、競艇(ボート)とは無縁のままだ。あちこち移り住んだけれど、近くに競艇場がなかったからである。あれば、間違いなく損をしに行っていただろう。したがって、私の知る競艇場は、数えきれぬほど往復した東海道線からちらりと見える浜松近辺(だと思う)のそれだけだ。それだけでも、掲句の雰囲気はよくわかるような気がする。何年か前に中学の同窓会旅行で下関に出かけたとき、酒席での友人たちの話題が、自然にボートに傾いていったのには驚いた。こちらは賭け方の方法も知らなければ、もちろん選手の名前など一人も知らない。会話から、完全にはじき出されてしまった。黙っている私に、声あり。「てっちゃんは、ボートやらんのか。マジメじゃからねえ……」。大いなる誤解だが、抗弁はしなかった。翌日は日曜日。帰るために下関駅に向う途次、そこここで、競艇の予想紙を食い入るように眺めている男や女を何人も見かけた。その街には、その街ならではの楽しみがあるのだ。もう一日滞在できたら、確実に足を運んでいただろう。惜しいことをした。『麥秋』(1992)所収。(清水哲男)




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