MacOSXが24日に発売になる。同梱のフォント「ヒラギノ」が欲しい。あれは奇麗だ。最高の書体です。




2001ソスN3ソスソス12ソスソスソスソス句(前日までの二句を含む)

March 1232001

 ふたなぬか過ぎ子雀の砂遊び

                           角川源義

語は「子雀(雀の子)」で春。孵化してから二週間(つまり「ふたなぬか」)ほど経つと、巣立ちする。はじめのうちこそ親について行動するが、それも十日ほどで独立するという。立派なものだ。でも、そこはまだ赤ちゃんのことだから、砂遊びもやはり幼くぎごちない。見守る作者ははらはらしつつも、その健気な姿に微笑を浮かべている。ところで雀といえば、「孕み雀」「黄雀」「稲雀」「寒雀」など季語が多いが、なかに「すずめがくれ(雀隠れ)」という季語がある。春になって萌え出た草が、舞い降りた雀の姿を隠すほどに伸びた様子を言う。載せていない歳時記もあって、元来が和歌で好まれた言葉だからかもしれない。「萌え出でし野辺の若草今朝見れば雀がくれにはやなりにけり」など。一種の洒落なので、使いようによっては野暮に落ちてしまう。成瀬櫻桃子に「逢はざりし日数のすずめがくれかな」の一句あり。どうだろうか。「逢はざりし」人は恋人かそれに近い存在だろうが、現代的感覚からすれば、野暮に写りそうだ。逢わない日数を草の丈で知るなどは、もはや一般的ではない。揚句に話を戻すと、瓦屋根の家がたくさんあったころには、雀の巣も子もよく見かけた。句の砂遊びの姿も、珍しくはなかった。が、いまどきの都会の雀の巣はどこにあるのだろう……。たしかに昔ほどには、雀を見かけなくなってしまった。ここで、石川啄木の「ふと思ふ/ふるさとにゐて日毎聴きし雀の鳴くを/三年聴かざり」を思い出す。「三年(みとせ)」は啄木の頻用した誇張表現だから信用しないとしても、明治期の都会でも雀の少なくなった時期があったのだろうか。『新日本大歳時記・春』(2000・講談社)所載。(清水哲男)


March 1132001

 森霞む日付けの赤き日曜日

                           櫛原希伊子

あ、絵になっている。読んだ途端に、実景というよりも、絵を感じた。それも、コンピュータ・グラフィックスで描いたような絵。カレンダーの日曜日の赤い「日付け」が前面にあり、それを通して遠くの森が霞んで見えている。下手くそながら、私はコンピュータの「お絵書きソフト」が好きなので、ついそう思ってしまったのだが、もとより作者にその意識はないはずだ。が、コンピュータを外しても、「日付けの赤き日曜日」というフィルターを通して森を霞ませたところには、モダンなデザイン感覚を感じる。自註で作者が書いているように、日曜日を「赤」としたのは誰なのだろうか。なぜ「赤」なのか。いつごろから行われてきたのだろうか。床屋さんでくるくる廻っている標識の「赤」は動脈、「青」は静脈を意味するそうだが、やはり人体に関連した比喩としての色彩なのだろうか。そう言えば、祝日も「赤」であり、最近のカレンダーでは土曜日も「赤」にしているものも見かけるが、これらは単に日曜日が「休み」という意味からの流用であって、本義の「赤」とは関係はないだろう。でたらめな本義の推測をしておけば、キリストが復活した安息日の日曜日にちなんでの「赤」なのかもしれない。すなわち、十字架で流された血の色だ。ユダヤ教での安息日は、金曜日の日没から土曜日の日没までだから、このあたり、ユダヤ教でのカレンダーでは何色なのだろう。たまたま手元にある中国のカレンダーでも、日曜日は「赤」で表示されている。となれば、宗教とは関係がないのかな。ともあれ、今日は「日付けの赤き日曜日」です。よい一日でありますように。『櫛原希伊子集』(2000)所収。(清水哲男)


March 1032001

 春山を越えて土減る故郷かな

                           三橋敏雄

さしぶりに「故郷」を訪れた。春の山には、昔と変わらず木の芽の香りが漂い、鳥たちも鳴いている。少年時代に戻ったような気分で山を越えると、しかしそこに見えてきたのはすっかり「土」の減っている「故郷」であった。道路は舗装され、田畑もめっきり減ってビルや住宅になり、すっかり景観が変わってしまっている。さながら今浦島の心地……。「春山」が昔と同じたたずまいを保っているだけに、よけいに違和感がある。まさに「土減る故郷」と言うしかないのである。作者の故郷は東京の端の八王子だが、句の様子は、日本全国ほとんどの地に当てはまるだろう。我が故郷の村では「兎追いしかの山」すらも自衛隊の演習地と化し、山自体が人工的に形を変えられ生態系も激変したので、この句も成立できないありさまだ。成立しないといえば、国木田獨歩に、都会で一旗揚げようと村を飛びだした男が、失意のうちに故郷に舞い戻るという短編があった。揚句とは違い、故郷は昔と変わらぬ田舎のままであり、子供たちが昔の自分と同じように、同じ川で魚を釣っている。この小説で最も印象的なのは、その子供たちの顔や姿から、男が「どこの子」かを当てるシーンだ。みんな、かつて自分と一緒に遊んだ友だちの子供なので、すぐに面影からわかったのである。「土減る故郷」では、もはやこういうことも起こらない。「故郷」への切ない挽歌である。『眞神』(1973)所収。(清水哲男)




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