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2001ソスN3ソスソス15ソスソスソスソス句(前日までの二句を含む)

March 1532001

 笹舟の舫ひていでぬ茅花かな

                           飴山 實

庭が大きな世界をミニチュア化した楽しさなら、揚句は反対に小さな世界を大きく見立てた面白さだ。小さな笹舟が、あたかも本物の舟同士を舫(もや)ったような感じで、次々と岸を離れていく。このとき、岸辺になびく可憐な茅花(つばな)の穂は、笹舟からすればさながら嵐のなかの巨木のように写ることだろう。子供が玩具で遊ぶときの、あの童心の世界だ。と同時に、句は自然の大きさも描いている。大きな自然からすれば、笹舟も本物の舟も、人間を尺度にした大小などにさしたる違いがあるわけではない。むしろ、同一だとしたほうがよいだろう。だから自然のなかにあっては、童心は見立てや錯覚に起因するのではなくて、それこそ自然そのものから流れ出してくる心持ちなのだ。この季節に、笹舟ではよく遊んだ。学校帰りの道草である。唱歌に出てくるのとそっくりな「春の小川」に、一枚の笹の葉を細工した簡単な舟、二枚を組み合わせて作った帆掛け船を、飽きもせずにひたすら流すだけ。笹舟では物足らなくなった上級生たちは、木を削ってゴム動力をつけたり、本格的に蒸気エンジンを搭載した船まで走らせていたっけ……。岸の茅花の若い穂を引き抜いて噛むと、わずかに甘い味がした。なかにはついでにメダカをすくって食べる奴もいたけれど、これは仲間におのれの度胸を誇示するためで、臆病な私にはとうてい適わぬ芸当だった。懐かしいなあ、笹舟も茅花も。『次の花』(1989)所収。(清水哲男)


March 1432001

 桃咲くやゴトンガタンと納屋に人

                           矢島渚男

や春。農家の庭先だろう。陽光のなか、見事な桃の花が咲いている。思わず立ち止まって見惚れていると、納屋の中から「ゴトンガタン」と音が聞こえてきた。なかに、誰かがいる様子だ。桃の花には、どこかぼおっと浮き世を忘れさせるような趣がある。万葉の昔から、そのあたりの感覚はよく歌われてきた。「春の苑紅にほふ桃の花下照る道に出で立つをとめ」など。けれど、揚句はそこに生活の音を配したところがミソである。「ゴトンガタン」は、何か大きな物を動かしている物音だ。小さな物ならば、音も「ゴトガタ」とせわしないはずだ。おそらくは農作業に使う道具だろうが、もちろん作者には見えない。見えないが、植物だけではなく、人間世界でもいよいよ本格的な春の営みのはじまる気配が感じられ、心豊かな気持ちになっている。「ゴトンガタン」のおおらかな物音は桃の花のぼおっとした雰囲気によく溶け込んでおり、人が季節とともに生きていることの素晴らしさを伝えて秀逸だ。余談めくが、この句で作者がいちばん苦労したのは「ゴトンガタン」の表現だろう。「ガタンゴトン」では昔の汽車の走る音になってしまうし、かといって、なかなか他に適切な擬音語も思いつかず……。いろいろと試みてみて、結局「ゴトンガタン」に落ち着いた(落ち着かせた)ときの作者の気持ちがわかるような気がする。さらっとできたような顔つきの句に見えるが、私には苦吟の果ての「さらっ」に思われた。『翼の上に』(1999)所収。(清水哲男)


March 1332001

 人生を空費して居る柳かな

                           永田耕衣

吹きが美しいので「柳」は春の季語。「♪柳青める日、ツバメが銀座に飛ぶよ、……」など、たくさんの春の流行歌にもなっている。さて、揚句。まさか柳に「人生」があろうはずもないから、すうっと読み下さないで、「空費して居る」で一度切る。すると、柳の姿に「人生を空費して居る」おのれの姿がダブル・イメージとなって映し出されてくる。しかし、そう簡単に句を割り切ってしまうのも面白くないよ。と、句それ自体が呼びかけているような気がする。では、次にすうっと読み下してみよう。すると今度は柳にも「人生」があることになる。どんな「人生」なのか。たとえば俗に「柳に風」と言ったりするが、これを皮肉に解釈すれば、平然と風を受け流せるのは、柳にはおのれを主張できるような確固とした主体的自立的「人生」がないからだと言える。何も主張しないのだから、どんな風当たりにも平気の平左でいられるのだ。こう読むと、「人生」の「空費」も捨てたものじゃない。むしろ最初から「空費」するしかない柳の「人生」のほうが、羨ましくさえ思えてくる。となって、結局は途中で切って読んでも読み下しても、テーマは同じところに収斂していく。「空費」全般の肯定だ。ここらへんが、俳句様式のマジックだろう。いわば曖昧さを「精密に表現してみせる」様式とでも言うべきか。簡単に言えば、作者が「そんな気がした」だけで、さしたる説得の努力もせずに、読者に有無を言わせないところが俳句にはある。「作るが勝ち」のところがある。こんな文芸は、他にはないだろう。『人生』所収。(清水哲男)




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