ラジオの仕事で13年ぶりの立川市行き。立川が変わったとすれば、アメリカ人の激減だ。実感してくる。




2001ソスN3ソスソス17ソスソスソスソス句(前日までの二句を含む)

March 1732001

 「思わしくない」などまだ無心蝌蚪とりに

                           古沢太穂

書に「通信簿をもらってきた柊ちゃん」とある。ご長男の名前が「柊一」君。小学校一年生の一年を締めくくる通信簿に「思わしくない」という評価があった。でも、柊ちゃんはそんな成績にも無頓着で、いつものようにさっさと「蝌蚪(かと・おたまじゃくし)」をとりに、表に飛び出していってしまった。その「無心」に微笑しつつも、しかし親としてはやはり「思わしくない」が気になって、あらためて通信簿に眺め入るのである。句が作られたのは、1950年代のはじめのころ。まだ「思わしくない」などという厳しい表現による評価項目があったのかと、ちょっと驚いた。その後は、いつのころからか「がんばろう」などのマイルドな表現に変わっていったはずだ。むろん五段階評価それ自体に変わりはないのだが、一年生にはともかく、上級の子らに「思わしくない」評価には辛いものがあったのではなかろうか。私が一年生のときには「優」「良上」「良」「良下」「可」の五段階だった。柊ちゃんとは違って、何故か成績をよく覚えている。「修身」の「良上」を除いて、あとは全部「良」だった。紫色のゴム印で押してあった。後に中学二年時の数字評価の「オール3」を獲得する素地は「栴檀は双葉より芳し(笑)」で、早くも一年生で芽生えていたというわけだ。高校生三年生のときに、すぐ後ろの席にいたH君の成績表を見せてもらったことがある。「オール5」だった。他人のものながら、あんなに気持ちの良い成績表を見たのは、あのとき一回きりである。彼は学校が禁じた(そんな時代もあったのだ)映画『不良少女モニカ』を見に行くような一面もあって面白い男だったが、涼しい顔ですんなりと東大に入っていった。ところで、その後の柊ちゃんはどうしたろうか……。『古沢太穂句集』(1955)所収。(清水哲男)


March 1632001

 母に抱かれてわれまつさきに囀れり

                           八田木枯

恋の句。赤ん坊が小鳥のように「囀る(さえずる)」わけもないが、若き母親の期待に応えて、あのときに僕は一生懸命に言葉を発していたのですよと、いまは亡き母に訴え、賛意を求めている。でも、僕の声は人間の言葉にはならず、単なる囀りのようでしかなかったかもしれない。でも、とにかく僕が「まつさき」でしたよね、お母さん……。僕は、いまでもそのことを誇りに思っています。と、この心情にはいささかの狂気も感じられるが、しかし、亡き母を偲ぶ人の気持ちには、狂気があって当然だろう。狂気が言い過ぎならば、通常の世間とのつきあいでは成立せぬ感情が、母との関係においては、楽々と発生するということだ。母親とは、なにしろ世間を知るずっとずっと前からのつきあいだもの……。このときに、一方の親である父親は、いわば「最初の世間」として立ち現れるのだろう。そこが、母親と子供との濃密な関係を持続させる理屈抜きの要因だ。だから、同じ作者の「両手あげて母と溺るる春の川」の句にしても、よくわかる。母親とであれば、ともに溺れたってよいのである。両手をあげているのは、嬉々として溺れている狂気の世界を積極的に象徴してみたまでだ。「春の川」が、その心情に拍車をかけている。私の場合は母が存命なので、作者の狂気を十分に汲みとるわけにはいかない。でも、年齢のせいか、母への思いがこのように純化されていく心理的プロセスだけはわかるような気もしてきた。同じ作者に、こういう句もある。「井戸のぞく母に重なり夏のくれ」。妖しい狂気が漂っていて、三句のなかではいちばん印象深い。『於母影帖』(1995)所収。(清水哲男)


March 1532001

 笹舟の舫ひていでぬ茅花かな

                           飴山 實

庭が大きな世界をミニチュア化した楽しさなら、揚句は反対に小さな世界を大きく見立てた面白さだ。小さな笹舟が、あたかも本物の舟同士を舫(もや)ったような感じで、次々と岸を離れていく。このとき、岸辺になびく可憐な茅花(つばな)の穂は、笹舟からすればさながら嵐のなかの巨木のように写ることだろう。子供が玩具で遊ぶときの、あの童心の世界だ。と同時に、句は自然の大きさも描いている。大きな自然からすれば、笹舟も本物の舟も、人間を尺度にした大小などにさしたる違いがあるわけではない。むしろ、同一だとしたほうがよいだろう。だから自然のなかにあっては、童心は見立てや錯覚に起因するのではなくて、それこそ自然そのものから流れ出してくる心持ちなのだ。この季節に、笹舟ではよく遊んだ。学校帰りの道草である。唱歌に出てくるのとそっくりな「春の小川」に、一枚の笹の葉を細工した簡単な舟、二枚を組み合わせて作った帆掛け船を、飽きもせずにひたすら流すだけ。笹舟では物足らなくなった上級生たちは、木を削ってゴム動力をつけたり、本格的に蒸気エンジンを搭載した船まで走らせていたっけ……。岸の茅花の若い穂を引き抜いて噛むと、わずかに甘い味がした。なかにはついでにメダカをすくって食べる奴もいたけれど、これは仲間におのれの度胸を誇示するためで、臆病な私にはとうてい適わぬ芸当だった。懐かしいなあ、笹舟も茅花も。『次の花』(1989)所収。(清水哲男)




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