例年より早いのでピンとこないが、いよいよプロ野球の開幕だ。MacOSXの発売日だし、今日は忙しい。




2001ソスN3ソスソス24ソスソスソスソス句(前日までの二句を含む)

March 2432001

 一斉に客の帰りし朧かな

                           塩谷康子

は「おぼろ」。「では、そろそろ失礼します……」。「あっ、もうこんな時間……」。一人が立ち上がると、うながされたように、みんなが「一斉に」立ち上がる。玄関まで見送って部屋に戻ると、そこには独特の雰囲気の空間が残っている。つい先刻まで笑いさざめいていた人たちの余韻があって、なんだか淋しいような、ホッとしたような。これから後片づけが待っているのだが、時は春。もてなした側の気配りの疲労感も、ぼおっと心地よく「朧」に溶けて、しばし室内を見渡している。どこか「一期一会」に通じるような、そんな作者の心情の通ってくる句だ。やはり春でなければ、こうは詠めまい。「朧」が客たちの余韻をふうわりと包み込み、引き摺るのである。むろん、これはホストとしての句。客によっては、ホストになれない家族もいる。子供の頃の来客は、いやだった。たいていが父の客で、子供は挨拶させられるだけ。客のいる間は、どこかに引っ込んでいるしか仕方がない。昼間ならば表で遊ぶというテもあるけれど、夜は別の部屋で息を殺すようにして過ごさねばならなかった。本でも読もうかと思うのだが、どうも気になって身が入らない。家の中に普段いない人が長時間いるということは、一つの事件と言ってもよさそうだ。教師の家庭訪問などは、さしずめ大事件と言うべきか。現状では、我が家の客には、圧倒的に連れ合いの客が多い。ついで、子供の客。その間は、別室で小さくなっている。私に客が少ないのは、男同士の交友はたいてい外の飲屋ですませてしまうせいと思うが、こういう句に触れると、たまには自宅で楽しくやりたくなってくる。春おぼろ……。今日あたり、この句を実感する読者もおられるだろう。『素足』(1997)所収。(清水哲男)


March 2332001

 花たのしいよいよ晩年かもしれぬ

                           星野麥丘人

国から花便りが届くようになった。若いころにはそうでもなかったが、年齢を重ねるに連れ、開花が待ち遠しくなってきた。なんとなく、血のざわめきのようなものを感じる。いったい、いかなる心境の変化によるものだろうか。そんなことを漠然と感じていた矢先だったので、この句に出会ったときにはドキリとした。自註というわけではないが、作者の俳人としての「花」に対する姿勢が添えられている。「平成二年。花鳥風月の花を代表するのはいうまでもなく桜。その桜を『花』という。とても詠めるものじゃない。虎杖やすかんぽでも詠んでいる方がぼくにはふさわしいことは、ぼく自身がいちばんよく知っている。だから『花』のような大きな季語で写生することなど出来る筈がない。はじめから逃げている、そう言われても仕方のないような作だが、晩年に免じて許されたい」。「晩年」について言えば、生きている人の誰にもおのれの「晩年」はわからない。本来は故人を偲ぶときなどに使う言葉だろうから、生きている人が自分の「晩年」を言うのは自己矛盾である。しかし、これからがややこしいところで、一方で私たちは人が必ず死ぬことを知っている。それも、ある程度の年齢まで到達すると、本人も周囲も「いよいよ」かと思うものだろう。だから、自分の「晩年」を言っても、さしたる矛盾でもないという年齢はありそうだ。が、いくつになったら矛盾しないのか。究極的には、やはり誰も自分の自然な余命を知ることはできない。だとすると、……と考えていくうちに、事は錯綜するばかり。ああ、七面倒くさい。となって、「晩年かもしれぬ」で打ち止めである。だから「晩年」の二字はあっても、句は暗くない。むしろ、明るい。「俳句研究」(2001年3月号)所載。(清水哲男)


March 2232001

 春暁亡妹来り酒静か

                           入江亮太郎

中吟。「悼妹」の前書あり。「春暁」は「はるあかつき」と読ませている。春暁の夢の醒め際に、亡き妹が現われた。そのことを思い、妹との交流の日々をしみじみと思い出しつつ、静かに酒を含んでいる図だ。漢字が多く、見た目にゴツゴツしているところは「詩人俳句」の特徴みたいなものだが、この場合にはそれがかえって効果をあげている。かつて「彼方」の詩人として知られた入江亮太郎が本格的に作句をはじめたのは、晩年になってからだという。詩から俳句への道筋は、どのような思いからだったのだろう。詩を書いてきた私にも関心をかき立てられるところだが、遺句集に収められた令夫人の小長井和子さんの文章で、次の美しい解説を読むことができる。「滅びの予感に怖れを抱きつつ、長いあいだ紙の上に詩を書かずにいた入江は、『私に優しかりし人と山川草木水石及び鳥獣蟲魚の印象を記す』とかねて考えていたことを俳句という形式によって実現し、幼馴染みの友人に見せようとした。そしてそれが実際には彼の白鳥の歌となったのである。もはや未来を考えることが無意味となったとき、彼はひたすら幼年時代ににさかのぼって過去を探り、そのイメージを表現することによってしばし病苦を忘れようとしたのだろう。時たまテレビに映し出される沼津駅前の現代化したにぎわいなど、入江にとってはどうでもよかった。彼はただ記憶のなかに止められている美しいふるさとの風物や、懐かしい人々の映像を書きとめ、その記憶の世界を自分と共有しうる友人に贈りたかったのにちがいない。……」(「晩年の入江亮太郎」)。亮太郎は沼津の出身だった。それにしても「もはや未来を考えることが無意味となったとき」という件りには、粛然とさせられる。よほど運がよくないと、私もこうなるだろう。と同時に、この人に「俳句」があって本当によかったと思い、あらためて「俳句という形式」の並々ならぬ魅力に思いが至った。『入江亮太郎・小裕句集』(1997)所収。(清水哲男)




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