2001N4句

April 0142001

 花影婆裟と踏むべくありぬ岨の月

                           原 石鼎

野山での句。「花は吉野か」と、吉野の山桜は有名だ。肌寒いほどの夜だろう。月は朧ではなく、煌々と冴え返っている。その月光が、岨(そば)道に「花影(かえい)」を落としている。「婆裟(ばさ)と踏むべく」で、作者の頭上に群がり咲いている花の豪華な量感が知れる。踏めば、影でも「婆裟」と音がしそうだ……。ざっくりと詠んでいるようでいて、実に緻密な構造を持っている句だ。五七五だけで、よくもこんなことが言えるものだと感心させられてしまう。秘密の一端は「岨の月」という極度の省略表現にある。試みに掲句を外国語に翻訳してみようとすると、この部分はとても厄介だ。どうしても、説明が長くなる。長くなると、句の情感が色褪せる。かつて篠原梵が「切れ字は俳句界の隠語だ」というようなことを言ったことがあるけれど、この省略表現もまた、俳句に慣れない人には隠語みたいに感じられるかもしれない。とにかく、俳句特有の省略法である。以下は、また脱線。「花影」は普通樹に咲いている花の影を言うが、散っている花の影を指した珍しい詩がある。大村主計の書いた童謡「花かげ」に「十五夜お月さま ひとりぼち/桜吹雪の 花かげに/花嫁すがたの おねえさま/くるまにゆられて ゆきました}とある。こちらの月は朧だろう。それにしても「桜吹雪」の花影とは。センチメンタルな道具立てに凝りすぎたようで、情景がピントを結んでくれない。私の感受性が変なのかもしれないが、夜の歌という気もしない。したがって同じ月夜の桜でも、この場合は俳句の圧勝である。『花影』所収。(清水哲男)


April 0242001

 一服の茶をげんげ田にかしこまる

                           太田土男

圃一面に咲く紫雲英(げんげ)の花の光景は、昔の農村では日常的なものだった。やがて鋤かれて、土に混ぜ合わされてしまう。肥料になるわけで、鋤かれるのを見ていても、感傷に誘われるようなことはなかった。また来春になれば、必ず同じ光景が戻ってくるからだ。この句を読んで思い出されたのは、視覚的な花ではなく、触覚的な「げんげ」だ。花が咲くと、女の子はもちろん、男の子も「げんげ田」に座り込んで、花輪作りなどをして遊んだ。その座り込んだ感覚が、半世紀という時間を経てよみがえってきた。どんなに天気が良い日でも、花の上に坐ると湿っぽくてひんやりとしていた。掲句は、野良仕事の合間のティー・タイムである。「かしこまる」は、いろいろな意味に取れるが、私はずばり「正座」だと読む。句が作られたのは二十年ほど前のことだから、畦道に置いてあった茶は、たぶん魔法瓶に詰められていただろう。私の頃には薬罐だったので、飲むころには冷たくなっていた。どちらでもよいけれど、茶は「いただく」ものである。したがって、おのずから自然に「正座」となる。この湿っぽく冷たい「げんげ」の感触があってこそ、はじめて春の野良で喫する茶の美味さが味わえる。茶に限らず、まだ日本人には立ち飲み、立ち食いの習慣はなかった。はしたないことと、されていた。そのころ覚えた歌に、西條八十の「お菓子と娘」がある。一節に「選る間も遅し エクレール/腰もかけずに むしゃむしゃと/食べて口拭く 巴里娘」とあり、仰天した。でも、巴里(パリ)のお姉さんたちって奔放で恰好いいんだなあとも思った。後年はじめてパリに行ったときに、当然思い出した。意識して「巴里娘」を見ていると、お菓子をほおばりながら歩いている女性はいるはずもなく、くわえ煙草で歩く若い女性たちが目についた。たいていが「パルドン」を連発しながら、人を蹴飛ばすようにして歩いていた。恰好悪いなと思った。最近のの日本でも、くわえ煙草の女性が目立ってきた。家やオフィスでは、喫えないからだろう。でも、恰好よい娘はほとんど見かけない。格好良く煙草を喫うのは、とても難しいのだ。あれっ、また脱線しちゃったかな……(苦笑)。『太田土男集』(2001)所収(清水哲男)


April 0342001

 春うらら上がる下がると京の街

                           浅見優子

学時代の下宿の位置を京都駅から説明すると、駅前の烏丸通をまっすぐ「上がって」いくと烏丸車庫に突き当たり、そこから立命館高校ガ見えるので、裏手の小山初音町に回り込み、三味線の音が聞こえてきたら(大家さんは長唄のお師匠さん)、その家の二階が私の部屋であった。京都に住んでしまえば「上がる下がる」は「東入る西入る」とともに便利な方向指示用語だけれど、最初は戸惑った。京都のように整然と東西南北に走る道筋を知らなかったので、かえってまごつくことになった。要するに、道はまがりくねっているものという先入観が、なかなか払拭できなかったからだ。作者も、同様だろう。旅の人ゆえ、戸惑いすらもが面白く、春の「麗か」(季語)さが増幅される気分になっている。なぜ「上がる下がる」なのかと言えば、「天子は南面す」る存在であるから、天子は常に北を背にしている。したがって、北におわします天子に近づくのが「上がる」で、遠ざかるのが「下がる」という理屈だ。だから、江戸時代の江戸で出た地図も「上方(かみがた)」である西を上にして描かれている。西洋流の北を上にする描き方を知らなかったわけではないはずだが、おそれおおいということで西側を上に持ってきたのだろう。ただし「御城(江戸城)」という図上の表記は真っ逆さまだ。とても変な感じだけれど、これは暗に天子に足を向けた「御城」の権威を表している。天子を形式的にうやまいつつも、実質的な権力の象徴としての「御城」の権威をも、同一画面に同時に描こうとした地図師の苦肉の策だったかと思われる。「春うらら」とは遠い話になってしまった。「朝日俳壇」(「朝日新聞」2001年4月2日付)所載。(清水哲男)


April 0442001

 衰ひや歯に喰あてし海苔の砂

                           松尾芭蕉

語は「海苔(のり)」で、春。人間の衰えの兆しは、まず歯に来ると昔から言われてきた。その次には「目」に来て、次の次はムニャムニャ(笑)だ。元禄四年(1691)の作句だから、芭蕉は四十八歳だったことになる。当時の海苔には砂混じりのものも多かったはずだから、老若に関係なく「喰あてる」ことは普通のことだったろう。が、年を取るとジャリッと噛み当てたときの感触が違うのだ。若いうちならジャリッと来たらペッペッと平気な顔をしていられるが、そうはいかない。ジャリッと来てミシッと歯茎に食い込む感じになる。「来たっ」と思い、認めたくはないのだけれど、否応なくこれが衰えというものかと思う。会食のときなどにジャリッと来ると、顔にこそ出さないが、一瞬暗澹たる気持ちになる。まわりの人たちの若さが、とても羨ましくなる。芭蕉も、きっとそんな気持ちだったに違いない。べつに芭蕉に言われなくても、年老いてくると、誰もが歯の一瞬の感覚で衰えを感じているはずだ。しかし、そんな当たり前のことを簡潔に表現するのは難しい。初案は「噛当る身のおとろひや苔の砂」だった。こちらの句は本音が出過ぎていて、個人的な感慨に閉じ籠っていて、句がべとついてしまっている。からっと仕上がって乾いている掲句のほうが、多くの読者に思い当たらせるパワーを感じる。なにせ相手が乾き物の「海苔」だけに……。とは、無論つまらん冗談です。(清水哲男)


April 0542001

 はなちるや伽藍の枢おとし行

                           野沢凡兆

兆は、加賀金沢の人。蕉門。『猿蓑』の撰に加わった。彼の移り住んだ京には、いまも花の名所として知られる寺が多い。夕刻の光景だ。花見の客もあらかた去っていき、静かな境内では花が散り染めている。「枢(くるる)」は普通の戸の桟(さん)のことも言うが、ここでは寺だからもう少し頑丈な仕掛けのあるもの。「扉の端の上下につけた突起(とまら)をかまちの穴(とぼそ)にさし込んで開閉させるための装置」(『広辞苑』第五版)だ。旧家などの扉にも使われ、さし混むときにカタンと音がする。静寂のなかに扉を閉ざす音が響き、なお花は音もなく散りつづけて……。「はなちるや」の柔らかい表記と固い音響との対比も見事なら、僧侶の黒衣にかかる白い花びらとの対照も目に見えるようである。かくして、寺の花は俗世から隔絶され、間もなく「伽藍(がらん)」とともに柔らかな春の闇に没していくだろう。無言の僧侶はすぐに去っていき、作者もまた心地よい微風のなかを家路につくのである。寂しいような甘酸っぱいような余韻を残す句だ。「春宵一刻値千金」とも言うけれど、その兆しをはらんだ春の夕暮れのほうが、私には捨てがたい。「さくらちる」京都の黄昏時を、ほろりほろりと歩いてみたくなった。いまごろが、ちょうどその時期だろうか。(清水哲男)


April 0642001

 都をどり観給ふ母を見てゐたり

                           大串 章

語は「都踊」で、春。四月の間、京都祇園花見小路の歌舞練場で祇園の舞妓・芸妓が公演する絢爛豪華な踊りである。「都踊でよういやな」の掛け声でも有名だ。明治五年にはじまったというから、歴史は長い。田舎の母親を京都見物に招待した作者は、プランのなかに「都をどり」を組み込んだ。しかし、舞台を母が喜んでくれるかどうか心もとない。おそらく、作者も初見なのだと思われる。母のことが気になって、舞台に集中するどころではない。ちらちらと様子をうかがっているうちに「都をどりまぶしと母の微笑みぬ」と、喜んでくれた。ほっとした。招待とはまことに難しいもので、行きつけの飲屋に友人を誘っても、ちょっとこうした気分になる。ましてや、相手は遠く故郷から上洛してきた母親だ。気に入ってもらわなければ、悔いが残る。そんな気の遣いようが、身にしみて伝わってくる。母親からすれば、立派に成長した息子と並んで、一緒に舞台を観ているだけで十分に幸福なのだろう。だが、息子の側としては、そうはいかない。もっともっと喜ばせたい。喜ぶ顔が見たいのだ。と、このように母を思い遣る作者の心には、読者もほろりとさせられてしまう。他者からみれば、なんでもない光景だ。それゆえに、なのである。「給ふ」という表現も、よく生きている。久しぶりの邂逅であるし、今度会うのはいつのことにになるのかわからない。この気持ちが、ごく自然に「給ふ」と言わしめている。『朝の舟』(1978)所収。(清水哲男)


April 0742001

 銀行に口座開きて入学す

                           堀之内和子

元を遠く離れての大学「入学」だ。仕送りを受けとるために、銀行に口座を開いた。生まれてはじめて自分名義の口座を開き、ぐんと大人になった気分である。独り住まいをはじめるときには、いろいろと揃えなければならないが、いまや銀行口座もその一つというわけだ。アルバイトの賃金も、銀行振り込みが普通だろう。とくに私などの世代には、とても新鮮に感じられる句だ。昭和三十年代の前半に入学した我等の世代には、銀行は遠い存在でしかなかった。いかめしい建物のなかで、ぜんたい何が行われているのかも知らなかった。学生時代には、用事などないから一度も入ったことはない。漠然と、生涯無縁な建物だろうくらいに思っていた。当時の仕送りは、現金書留が普通。配達してくれる郵便屋さんが、神々しく見えた(笑)。貯金するほどの額ではないから、銀行はもとより、切手や葉書を買いに行く郵便局の貯金の窓口とも無縁であった。社会人になってから、生まれてはじめての原稿料を小切手でもらったときに、横線小切手の意味もわからず、それこそはじめての銀行の窓口で赤恥をかいたことがある。給料も現金支給の時代だったので、そんなことでも起きないかぎり、銀行とは没交渉のままでもよかったのだ。学生の分際(失礼)で銀行口座を開くのが一般化したのは、70年代に入ったころからだろうか。こういう句を読むと、つくづく古い人間になったなと思う。『新大日本歳時記・春』(2000)所載。(清水哲男)


April 0842001

 虚子の忌の写真の虚子の薄笑ひ

                           大野朱香

日、四月八日は高浜虚子の命日。1959年(昭和三十四年)没。「椿壽忌」とも称される。このときに私は大学生だったが、何も覚えていない。新聞は、一面でも大きく扱ったはずだけれど……。掲句は、なんといっても「薄笑ひ」が効いている。作者がどんな写真を見ているのかはわからないが、おそらくは微笑を湛えているであろう一見柔和な表情に、そうではないものを嗅ぎ取っている。小人(しょうじん)どもには、しょせん俺のことなどわかるまい。皮肉と侮蔑が入り交じったような、向き合う者をじわりと威圧するような、そんな表情に見えているのだ。虚子忌の句は掃いて捨てるほどあり、今日もたくさん作られるだろうが、微笑の奥に「薄笑ひ」を読んだ掲句の鮮烈さにかなう句を、他に知らない。しかも作者が、意地悪で作句しているのではないところに注目。虚子を巨人と思うからこその発想で、いささか敬遠気味ではあるとしても、虚子の大きさを的確に言い当てている。俳句的な腰は、ちゃんと入っている。ところで、これはいつかも書いたことだが、俳句では命日をやたらと季語にする風潮がある。人はどんどん死んでゆくから、忌日の季語もどんどん増えていく。反対だ。理由は単純。「○○忌」と作句されても、そんなのいちいち覚えちゃいられないからだ。命日と季節は、第三者には関係がつけられない。したがって、季語とは言えない。頼むから、仲間内だけでやってくれ。『今はじめる人のための俳句歳時記・春』(1997・角川書店)所載。(清水哲男)


April 0942001

 垣破れ繕はず人笑ひ住み

                           上野 泰

ば隠れているが、季語は「垣繕ふ(かき・つくろう)」で春。元来は北国の情景に用いられ、冬季の風雪にいたんだ垣根を春に修理することである。が、たとえば虚子に「古竹に添へて青竹垣繕ふ」とあるように、とくに北国に限定して使わなくてもよさそうだ。暖かい日差しのなかで庭仕事をしている人を見かけると、春到来の喜びが感じられる。掲句の家は「人」とあるから、自宅ではなく近所の家だろう。他人の家ながら、通りかかるたびに垣根が気になるほどいたんでいる。しかし、住む人たちはそういうことに無頓着らしく、修繕しようとする気配も感じられない。毎春のことである。家の中からはいつも誰かの笑い声が聞こえてきて、無精だが明るい家庭なのだ。こうした暮らし方もいいなあと、作者はほのぼのと明るい気持ちになっている。おそらく、作者は逆に几帳面な人だったに違いない。几帳面だからこそ、無頓着に憧憬の念を覚えている。無精者が破れ垣を見ても、句にしようなどとは思いつきもしないだろう。上野泰の魅力は、捉えたディテールを一瞬のうちに苦もなく拡大してみせる芸にある。それも、ほがらかな芸だ。見られるように、「破れ垣」と「笑い声」を取りあわせただけで、住む「人」の暮らしぶりの全体を浮き上がらせてしまう。上手な句ではないにしても「春雨の積木豪華な家作り」などを見ると、この「豪華」なる言葉遣いに芸の秘密を垣間見る思いがする。かくも素早くあっけらかんと「豪華」を繰り出せる豪華な感性。感性の地肩が、めっぽう強いのである。『春潮』(1955)所収。(清水哲男)


April 1042001

 山桜輪吊りにまはし売り軍手

                           加倉井秋を

かと見紛う真っ白い山桜が咲きはじめた。取り合わせて、真新しい白い軍手(ぐんて)。「輪吊りにまはし」とは面白い言い回しだが、小さな洗濯物を干すときに使う輪状の物干しにぐるりと軍手が吊り下げられている。この白色と白色との取り合わせに、何を思うか。それは、読者が「軍手」に何を思うかによって決定されるだろう。大きく分ければ、二通りに読める。農事に関わる人ならば、軍手は労働に欠かせない手袋だ。ちょうど山桜が咲く頃に農繁期に入るので、万屋(よろずや)の店先で新しい軍手を求めているのである。店の裏山あたりでは、山桜がぽつぽつと咲きはじめているのが見える。毎春のことながら「さあ、忙しくなるぞ」と、自分に言い聞かせている。また一方で、ちょっとした登山の好きな人ならば、登山道の入り口ちかくに軒を連ねている店を連想するだろう。軍手は、山菜採りなどで怪我をしないために使う。これから登っていく山を見上げると、そこここに山桜がまぶしい。軍手を一つ買い杖も一本買って、準備完了である。さあ、わくわくしながらの出発だ。いずれの読みも可能だが、私の「軍手」のイメージは、どうしても農作業に結びついてしまう。ごわごわとした真新しい軍手をはめるときの感触は、いまだに記憶に残っている。ちなみに、なぜこの手袋を「軍手」と呼ぶのだろうか。旧陸海軍の兵士たちが使っていたからというのが、定説である。『俳諧歳時記・春』(1968・新潮文庫)所載。(清水哲男)


April 1142001

 むつとしてもどれば庭に柳かな

                           大島蓼太

太(りょうた)は、十八世紀江戸の人。例の「世の中は三日見ぬ間に桜かな」の俳人だ。「むつとして」と口語を使っているのが、面白い。いまどきなら「むかついて」とやるところか(笑)。表で、何か不愉快なことがあった。むかむかしながら帰宅すると、庭では柳が風を受け流すようにして超然と静かに揺れている。些細なことに腹を立てている自分が、小さい人間に思われて恥ずかしいと言うのだろう。むろん、目にしみるような柳の美しさに、立腹に荒れた心が癒されてもいる。桜の句もそうだが、かなり教訓を垂れようとする色合いが濃い。また、そう読まなければ読みようがない。このように詩歌に教訓や人生訓を持ち込む流れは、昔から脈々としてつづいてきた。高村光太郎などはお得意だったし、宮澤賢治の一部の詩もそうだし、現代の書き手にも散見される。投稿作品には、どういうわけか実に多い。子供の頃は別(賢治の「稲作挿話」には感動した)として、やがて私はこういう流れが苦手となり、出会うたびにそれこそ「むつとして」きた。詩歌に生き方まで教えてほしくないよ、「東へ西へ歩け歩け」(光太郎)だなんて余計なお世話じゃないか……。ただし、このテの作者の美質はとにかく生真面目なところにあり、私など不良は恥じ入るばかりだ。だから「むつとして」も、なかなか面と向かっては物を言えないできた。不幸にも我が家の庭には柳もないことだし、どうすればよかんべえか。(清水哲男)


April 1242001

 夕東風や銭数えてる座頭市

                           小沢信男

頭(ざとう)とは、元来が琵琶法師の座に属する剃髪した盲人の官位を指す。近世になると、琵琶を演奏するだけではなく、一方で按摩や金貸しなどを業とした。転じて、盲人の意味もある。江戸期、そんな盲人の一人に「座頭市」と呼ばれた凄い男がいた。子母沢寛の随筆にほんの数行だけれど、按摩にして居合い抜きの達人がいたと出てくる。この数行をふくらませたのが京都大映の脚本家・犬塚稔で、それまでは白塗りで鳴かず飛ばずだった勝新太郎をスターの座に押し上げてしまった。「座頭市シリーズ」である。第一作目は『座頭市物語』(1962)。下総の大親分・飯岡助五郎一家に草鞋を脱いだ座頭市は、賭場では目明き以上の眼力を発揮したし、仕込み杖を逆手に握った居合い抜きの冴えには恐るべきものがあった。それが浮き世のしがらみから、お互いに剣の実力を認め合っている笹川繁蔵の用心棒・平手造酒との直接対決となる。このあたりは、むろん脚本家のフィクションだ。映画なので、座頭市が勝つ。勝つのだが、好まざる命のやりとりに空しさを覚えた座頭市が下総を去っていくところで、映画は終わる。前説が長くなったけれど、掲句はそよそよと心地よく吹く夕東風のなかで、座頭市が真剣な手つきで銭を数えている。それも、按摩の仕事で得た小銭をだ。仕込み杖さえ使う気になれば大金が転がり込んでくるというのに、それをしないで真っ当に按摩で稼いだ銭をいとおしんでいる。その姿を、作者もまたいとおしんでいる。春の夕景は、こうあってほしいものだ。このわずかな銭を元手に、これから彼がちんけな賭場に上がり込むにしても、だ。平手造酒とは違って、座頭市は身をやつしているわけじゃない。居合い抜きの名手であることも、彼にとって社会的な価値でも何でもない。あんなに腕が立つのなら、もっとよい暮らしができるのにと思うのは、現代人の見方。そうはいかなかったのが、江戸という時代だ。そのへんの事情にも、作者の思いはきちんと至っている。文芸同人誌「橋」(第16号・2001年4月)所載。(清水哲男)


April 1342001

 蛇穴を出れば飛行機日和也

                           幸田露伴

語は「蛇穴を出づ」で、春。冬眠からさめた蛇が地中から出てみると、ぽかぽかとした上天気。空を見上げて、思わずも「ああ、飛行機日和だ」とつぶやいている。まさか蛇がつぶやくわけもないが、ようやく長い冬のトンネルを抜け出た作者が、上機嫌で蛇につぶやかせたくなったのだ。真っ暗な地中から出てきたら、真っ先に目に入るのは周辺の景色ではなく、やはり明るい上空だろう。「蛇」と「飛行機」。この取り合わせには、意表を突かれる。それにしても、「飛行機日和」なんて楽しい言葉があったとは……。現代の「フライト日和」は飛行機に乗る人の側からの発想だが、「飛行機日和」は飛んでいる飛行機を下から見上げる人のそれだろう。昔の飛行機は低空で飛んだので、機影がよく見えた。パイロットの顔も見えた。爆音が近づいてくると、大人も子供も外に出て「凄いなあ」と眺めたのである。私の子供の頃は、飛行機はもちろんだが、自動車が通りかかっても後を追いかけて走ったものだ。排気ガスの匂いが、なんとも言えぬほどに心地よかった。まさに芳香。みんなで、胸いっぱいに吸い込んでいた。爾来半世紀を閲して、飛行機はよく見えなくなり、排気ガスは悪臭と化す。さて、今日の天気を「何日和」と言うべきなのか。『俳句の本』(2000・朝日出版社)所載。(清水哲男)


April 1442001

 昼の酒はなびら遠く樹を巻ける

                           桂 信子

ぶん葬儀か法要の後の、浄めの酒だろう。どういうわけか、「昼の酒」は少しでも酔いが早くまわる。折しも落花の候。酔いを自覚した目に、遠景の桜吹雪が見えている。樹を巻くように散るとは、幻想的な落花の様子を言い当てて妙だ。ほんのりと酔った作者は、故人をしのびつつ、盛んに散りゆく「はなびら」の姿に世の無常を感じている。散る桜、残る桜も散る桜。と、昔の人はまことにうまいことを言った。私事になるけれど、今日午前に多磨霊園で、さきごろ亡くなった友人の納骨式がある。「昼の酒」となる。まだ、花は少しくらい残っているだろう。鎌倉生まれで鎌倉育ちだった彼の愛唱歌の一つに、「元寇」があった。有名な蒙古襲来、文永・弘安の役の歌だ。「四百余州をこぞる 十万余騎の敵」と歌い出し、なかで彼がいちばん声を張り上げたのは「なんぞ恐れん我に 鎌倉男児あり 正義武断の名 一喝して世に示せ」のくだりだった。酔えば、よく歌っていた。その鎌倉男児も、いまや亡し。突然、それこそ樹を巻くようにして、苦しそうに散ってしまった。かつての仲間たちと「昼の酒」を飲みながら、私はきっとこの歌と掲句を思い出し、そして少しだけ泣くだろう。桂信子に「鎌倉やことに大きな揚羽蝶」もある。『彩(あや)』(1990)初秋。(清水哲男)


April 1542001

 友ら老いてうぐいす谷の橋の上

                           佐藤佐保子

京に「鶯谷(うぐいすだに)」の地名がある。岐阜にも同じ地名はあるが、この「橋」は上野公園の端っこから根岸に渡る「凌雲橋」あたりかと、勝手に見当をつけておく。掲句は「鶯谷」を「うぐいす」と「谷」に割って表記したところがミソだ。割ったままで読むと、老いた友人たちと山の谷間を散策する作者が「うぐいす」の声のする方を見やると、小さな「橋」がかかっており、そこに「うぐいす」がいるような感じがしたという牧歌的な情景にうつる。しかし、割らないで読むと、いきなり舞台は都会に変転して、山手線は鶯谷近くの橋の上を、友人たちと歩いている光景になる。「うぐいす」と「谷」を分けることで、両方の光景がダブル・イメージとなって、読者に飛び込んでくる。言葉遊びではあるけれど、それに終わっていない。両者の主情がほのかに通い合い、絶妙の効果をあげている。実際は、都会の「鶯谷」の「橋の上」なのだ。クラス会か何かの帰りだろうと思う。若き日と同じように、みんなが囀るようにおしゃべりしているのだが、その声音には歴然と老いが感じられる。隠せない。そう言えば、ここは「うぐいす」「谷」だった。一瞬、人里離れた谷間で老いていく「うぐいす」のことも思われて、侘びしくもあり、どこかこの現実が信じられなく受け入れがたい気持ちでもあり……。みんな綺麗だったから、それこそ「鶯鳴かせたことも」あったのにと、作者は陽気に囀りながらも思うのである。ちょっと、言い過ぎたかな。『昭和俳句選集』(1977・永田書房)所載。(清水哲男)


April 1642001

 逸る眼をもて風待ちの武者絵凧

                           櫛原希伊子

潟は「見附の凧合戦」と、自注にある。私は、残念なことに凧合戦を見たことがない。いつだったか、五月に行われる浜松の凧揚げの話を現地で聞いたことがあり、一度その勇壮な模様を見たいと思っていたので、掲句に目がとまった。凧には風が必要だから、よい風が吹いてくるのを待っている。風待ちの状態で、実際に血気に「逸(はや)る眼」をしているのは揚げ手の男たちだが、観衆には大凧に描かれた「武者」の眼に、彼らの切迫した気持ちが乗りうつっているように見えるのだ。つまり、ここで凧の「武者」は単なる絵ではなく、いざ出陣の生きた武士なのである。観衆にも、だんだん緊張感が高まってくる。自注にはまた「振舞酒が出た」と記されていて、適度の酒は雑念を払い集中力をうながすから、いやが上にも気分は昂揚せざるを得ない。そんな会場全体の時空間の雰囲気を、ばさりと大きく一枚の「武者絵」の「眼」で押さえたところが、作者の腕の冴え、技術の確かさを示しているだろう。それにしても「逸」という言葉には含蓄がある。原義は「弓なりに曲がる」という意味だそうだが、となれば「逸る」とは常に目的からはずれて「逸(そ)れる」危険性をはらんだ精神状況だ。「逸する」などとも言い、とかく「逸」にはマイナス・イメージの印象があるが、そうではない。何事かをなさんとする時の緊張状態を指している。だから、弓なりになりながら「一か八か」と短絡してしまうと、緊張感が「逸れて」勝負事にはたいてい負ける。蛇足ながら、ハワイのテレビはよく日本の時代劇映画を放映しているが、「一か八か」を翻訳してテロップで「ONE OR EIGHT」とやったことがある。『櫛原希伊子集』(2000)所収。(清水哲男)


April 1742001

 戦意なき男がぬつと目借時

                           和湖長六

は眠い。わけても蛙の単調な鳴き声を聞いていると、ついうつらうつらと眠くなってくる。この生理的現象は、さながら蛙に目を借りられたようなものだと言う人がいて、春の季語「(蛙の)目借時」が登場した。変な季語もあったものだが、江戸期には多くの人々のコンセンサスを得られたのだろう。全国、どこでも蛙の単調にして共通な斉唱が聞かれた時代だった。現代人である作者は、蛙の声と関係があるのかないのかは不明だが、とにかくうつらうつらと睡魔に襲われている。寝てはいけないと、みずからを叱咤してみるが、眠いものは眠いのだ。と、そこに「ぬつ」と入ってきたのが「戦意なき男」だったのだから、たまらない。眠気は、いよいよ増すばかりとなった。誰かが訪ねてくれば、たいていは少しは気持ちがしゃきっとするものだ。それが反対に作用していると言うのだから、面白い。「ぬつ」と訪ねてきた男の、ヌーボーとした風貌までが見えるようだ。むろん、お互いにツーカーの仲である。したがって、まったく緊張関係がない。こいつにまで、「目」を借りられちゃいそうだ……。ここで、思い出した。その昔のラジオの生放送中に、相棒の女性(特に名を秘す)がいやに寡黙になったと思ったら、あろうことか、実にすやすやとお眠りになっていた。ということは、彼女にとっての私は、まさに「戦意なき男」だったようだ。そう思われても、たしかに仕方のない男ではありますな、ハイ。『林棲記』(2001)所収。(清水哲男)


April 1842001

 かたくりの明日ひらく花虔しき

                           石田あき子

い句なのだが、問題なきにしもあらず。「虔しき」の読み方だ。字面から連想するに、おそらく「つつましき」と読んでほしいのだろう。しかし「虔」は、「慎」の字を「つつましい」「つつしむ」と両方に読むようには融通がきかない。訓読みでは「つつしむ」としか読まない。音読みは「敬虔(けいけん)」の「けん」である。初読ではそこに無理を感じるけれど、まだ咲いていない「明日ひらく花」の姿を、あたかも眼前で咲いているように「虔しき」と断言したことで、作者の思いがくっきりと浮き上がった。片栗の花の可憐さの奥にある心映えは、すでに「明日ひらく花」にも見えており、見えているからこその断定である。人品ならぬ「花品」がにじみ出ていると花を詠む気持ちには、私もかくありたいと祈る作者の心が込められているだろう。となれば「慎ましき」ではなくて、祈りの意味のこもった「虔」の字を用いたい。「明日ひらく花」は、どうあっても「敬虔」な姿をしていなければならないのだ。すなわち「虔しき」は、誤用であって誤用にあらずというのが私の結論である。俳句の一文字一文字は視覚的にも命だから、この「虔」の一文字は換えられないだろう。他の文字に取り換えるくらいなら、いさぎよく抹消したほうがよいと作者は思うだろうし、一読者たる私も思う。片栗の花を見るたびに、掲句を思い出すことになりそうだ。『今はじめる人のための俳句歳時記・春』(1997・角川書店)所載。(清水哲男)


April 1942001

 モヴィールの鳥は睦まぬ三十路かな

                           福島国雄

日に引き続いて、表記に問題のある句。「モヴィール」は「MOBILE」のカタカナ表記だから「モビール」でなければならない。同様に「DOUBLE」を「ダヴル」と誤記した例も、よく見かける。洒落たつもりかもしれないが、「B」と「V」では大違い。それはさておき、不思議な印象を残す句だ。作句年は1973年(昭和48年)。世相的な男女のことで言うと、上村一夫の漫画『同棲時代』が大ヒットして「同棲ブーム」などと喧伝されたころだ。薄暗いアパートの一室で二人がじめじめと暮らすという暗い内容の漫画だったが、それが若者には憧れの生活と写っていたのだから、面白い。しかしそんな生活は二十代のもので、たいがいは結婚していた三十代は大変だった。アパートでのじめじめ生活は一緒でも、なにしろ生活のために稼がなくてはならぬ。子供でもいれば、とにかく律儀に懸命に働くのみ。いったい俺は何をしに生まれてきたのかと、作者と同じく三十路にあった私もたまには考えたが、いつまでも下手な考えに沈んでいるわけにもいかなかった。なるほど、この状態はモビールの鳥に似ていたかもしれない。社会という細い糸に吊られ、風に吹かれて浮遊していた三十代は、一見悠々と生活の軌道に乗っているように見えて、そうではなかった。もはや、睦み合う二十代、つい昨日の青春を遠く離れてしまったという実感があった。そんなことを思い出すと、言い得て妙、たしかにモビールの鳥のようでしかなかった。美術館でカルダーのモビールを見たのも、奇しくもちょうどそのころである。「三十路かな」の詠嘆が、実に苦い。無季句としてもよいが、当歳時記では「鳥交る」で春に分類した。『昭和俳句選集』(1977)所載。(清水哲男)


April 2042001

 もの問へば接穂くはえてゐたりけり

                           飴山 實

語は「接穂(つぎほ)」で、春。接ぎ木をするときに、砧木(だいぎ)に接ぐ芽の付いた枝のことを言う。「話の接穂がない」などは、ここから出た言葉だ。何やら農作業をしている人に、道でも尋ねたのだろうか。振り向いた人が、接穂を口にくわえていた。ただそれだけのことながら、くわえられた接穂が、あざやかに春の息吹を感じさせる。それも、その人が振り向いた一瞬を捉えての描写なので、余計にあざやかな印象を残す。こうした表現は、俳句でなければ実現できないことの一つだろう。接ぎ木は、いわば夢の実現を目指す伝統的なテクニックである。渋柿の木に甘い柿がなってくれたらと、遺伝子などという考えもない昔の人が、試行錯誤をくりかえしながら開発した方法だ。物事の不可能を表す言葉に「木に竹を接ぐ」があるけれど、これだって、おそらくは試みた人がたくさんいたに違いない。何度やっても、どう工夫しても駄目なので、ついに不可能という結論に達したのだと思われる。現代の品種改良の難題として有名なのは「青いバラ」の実現だ。バラも接ぎ木で改良が重ねられてきたが、経験則での「青いバラ」実現は、木に竹を接ぐような話とされている。そこでどこかの企業がプロジェクトを組んで、遺伝子の側から演繹的に攻めているそうだ(改良途中の花の写真が、新聞に載ったことがある)。でも、夢は失敗の経験を帰納的に積み上げた果てに実現するのでないと、夢そのものの価値が薄れてしまう。「交番でばらの接木をしてゐるよ」(川端豊子)でないと、ね。「夢」を季語にするとしたら、やはり春だ。『少長集』(1971)所収。(清水哲男)


April 2142001

 両手で顔被う朧月去りぬ

                           金子兜太

くはわからないけれど、しかし、印象に残る句がある。私にとっては、掲句もその一つになる。つまり、捨てがたい。この句が厄介なのは、まずどこで切って読むのかが不明な点だろう。二通りに読める。一つは「朧月」を季語として捉え「顔被う」で切る読み方。もう一つは「朧」で切って「月去りぬ」と止める読み方だ。ひとたび作者の手を離れた句を、読者がどのように読もうと自由である。だから逆に、読者は作者の意図を忖度しかねて、あがくことにもなる。あがきつつ私は、後者で読むことになった。前者では、世界が平板になりすぎる。幼児相手の「いないいない、ばあ」を思い出していただきたい。人間、顔を被うと、自分がこの世から消えたように感じる。むろん、錯覚だ。そこに「頭隠して尻隠さず」の皮肉も出てくるけれど、この錯覚は根深く深層心理と結びついているようだ。単に、目を閉じるのとは違う。みずからの意志で、みずからを無き者にするのだから……。掲句では、そうして被った両手の暖かい皮膚感覚に「朧」を感じ、短い時間にせよ、その心地よい自己滅却の世界に陶酔しているうちに「月去りぬ」となって、人が陶酔から覚醒したときの一抹の哀感に通じていく。私なりの理屈はこのようだが、句の本意はもっと違うところにあるのかもしれない。従来の「俳句的な」春月を、あえて見ようとしない作者多年の「俳句的な」姿勢に発していると読めば、また別の解釈も成立する。と、いま気がついて、それこそまた一あがき。『東風抄』(2001)所収。(清水哲男)


April 2242001

 先人は必死に春を惜しみけり

                           相生垣瓜人

ハハと笑って、少ししてから神妙な気分に……。掲句は、出たばかりの「俳句研究」(2001年5月号)に載っている宇多喜代子「読み直す名句」で知った。この連載記事は同じ雑誌の坪内稔典のそれと双璧に面白く、愛読している。宇多さんの選句のセンスが好きだ。以下、宇多さんの説明(部分)。「惜春の情とは、本来、自然にわき出るものである。それをあたかも義務のように『必死に』なって春を惜しんでいる。たしかに古い時代のインテリたちは、競って春を惜しむ句を残している。なにごとにも『必死に』になってしまうものを、おかしがっているような句である」。その通りなのだろうが、私の解釈はちょっと違う。実は、そんなに暢気な句ではなくて、自戒の一発ではなかろうか。俳句に夢中になると、季節が気になる。眼前当季に血がのぼり、それこそ必死に季節を追いかけまわす。ひいては季節を追いかける癖がつきすぎて、ブッキッシュな季語にまで振り回され、「季語が季節か、季節が季語か」。なにやら朦朧としている症状に、当人だけは気がつかぬ。そんな自分のありように、はっと気がついたのが折しも暮れの春。おそらくは「惜春」の兼題に難渋しつつ、歳時記めくりつつ、思えば自分には「自然に」春を惜しむ心がないと知ったのだ。したがって、皮肉でも何でもなく、すいっと吐いたのが、この一句。「先人『も』」とやらなかったところが、作者の人柄だ。めったに作句はせねど、毎日このコラムを書いていると、こういうふうにも読んでみたくなる。日曜日だし、いいじゃん……。と、見る間にも、行春を近江の人に越されけり。つまり、ここで神妙になったというわけ。(清水哲男)


April 2342001

 春尽きて山みな甲斐に走りけり

                           前田普羅

正期の句。大型で颯爽としていて、気持ちの良い句だ。ちょこまかと技巧を凝らしていないところが、惜春という一種あまやかに流れやすい感傷を越えて、初夏へと向かう季節の勢いにぴったりである。雄渾の風を感じる。甲斐の隣国は、信濃あたりでの作句だろうか。この季節に縦走する山々の尾根を眺めていると、青葉若葉を引き連れて、なるほど一心に走っていくように見える。動かぬ山の疾走感。「ああ、いよいよ夏がやってくるのだ」と、作者は登山好きだったというから、さぞや心躍ったことだろう。こういう句を読むと、気持ちが晴れて、今日一日がとても良い日になりそうな気がしてくる。ちょこまかとした世間とのしがらみも、一瞬忘れてしまう。エーリッヒ・ケストナーの詩集『人生処方詩集』じゃないけれど、私には一服の清涼剤だ。ケストナーが皮肉めかして書いているように、「精神的浄化作用はその発見者(アリストテレス)より古く、その注釈者たちよりも有効である」。すなわち、太古から人間の心の霧を払うものは不変だと言うことである。自然とともに歩んできた俳句には、だから精神浄化の力もある。現代俳句も、もう一度、ここらあたりのことをよく考えてみるべきではないか。自然が失われたなどと、嘆いてみてもはじまらない。掲句の自然なら、いまだって不変じゃないか。『雪山』(1992・ふらんす堂)所収。(清水哲男)


April 2442001

 夕闇の既に牡丹の中にあり

                           深見けん二

から、牡丹(ぼたん)には名句が多い。元来が外国(中国)の花だから、観賞用に珍重されたということもあるのだろう。大正期あたりに、おそらくは同様の理由から、詩歌で大いに薔薇がもてはやされたこともある。それだけに、現代人が牡丹や薔薇を詠むのは難しい。原石鼎に「牡丹の句百句作れば死ぬもよし」とあるくらいだ。さて、掲句は現代の句。夕刻に近いが、まだ十分に明るい庭だ。そこに咲く牡丹を見つめているうちに、ふと花の「中」に夕闇の気配を感じたというのである。繊細にして大胆な言い当てだ。やがて、この豊麗な花の「中」の闇が周囲ににじみ出て、今日も静かに暮れていくだろう。牡丹の持つぽってりとした質感と晩春の気だるいような夕刻の気分とが、見事に呼応している。上手いなあ。変なことを言うようだが、こういう句を読むと、花を見るのにも才能が必要だと感じさせられる。つくづく、私には才能がないなと悲観してしまう。ちょっとした思いつきだけでは、このようには書けないだろう。やはり、このように見えているから、このように詠めるのだ。さすがに虚子直門よと、感心のしっぱなしとはなった。ちなみに「牡丹」は夏の季語だが、晩春から咲きはじめる。もう咲いている。『花鳥来』(1991)所収。(清水哲男)


April 2542001

 乙鳥はや自転車盗られたる空を

                           小川双々子

の場合の「乙鳥」は「つばめ」「つばくら」「つばくろ」いずれの読みでもよいだろう。そんなに長くかかる用事でもないからと、駐輪場には停めずに、ちょっとそのあたりに置いておいた。さて帰ろうかと出てくると、自転車がない。私も盗られたことがあるのでわかるのだが、こういうときには、すぐに盗難にあったとは思わないものだ。置いた場所を間違えたのか、あるいは邪魔なので誰かが移動したのかと、しばし探しにかかる。でも、いくら探しても見当たらない。自分のと似たような自転車に触ってみたりしながら、だんだん盗まれたらしいという懸念が現実化してくる。弱ったなあ。不思議なもので、こういうときには何故か誰もが空をあおぎ見るようだ。と、まぶしい空を滑るように飛んできたのが初「乙鳥」だった。そこで作者は束の間、「はや」こんな季節になったのかと、途方に暮れている気持ちを忘れてしまうのである。燕は、とにかく勢いよく飛ぶ。その勢いが、人の日常的な困惑やら思いやらを、一瞬断ち切るように作用する。作者にはお気の毒ながら、自転車を盗られることで、飛ぶ「乙鳥」の心理的効果がはじめて鮮やかに具象化されたわけだ。おーい「乙鳥」よ、私の「自転車」をどっかで見かけはせなんだかーい……。『新大日本歳時記・春』(2000)所載。(清水哲男)


April 2642001

 爪深く立てても女夏みかん

                           藤田津義子

前は「夏蜜柑」だけれど、出回るのが春なので春の季語。我が山口県は萩の名産なり。美味なり。しかし、あの剥きにくさには閉口させられる。掲句はそこを詠んだものだが、力いっぱい爪を立ててはみたけれど、そこからニッチもサッチもいかなくなった。そこで、困惑しながら「女」の非力を感じている。「夏蜜柑」を剥くというささやかな行為から、すっと「女」を意識したところが面白い。「立てても」の「も」に注目せざるをえないが、作者は他の日常的な場面でも、しばしば「女」を感じていることになる。それを一般的と言ってよいのかどうか、私にはわからないが……。ところが逆に大の男でも、卓上のちっぽけな瓶の蓋が開けられなかったりする。それが、女性に頼むと簡単に開く。力ではなくて、慣れから来るコツを心得ているからだ。そんなときに私などは、役立たずという意味での「男」を感じてしまう。掲句の作者も、瓶の蓋であれば苦もなく開けられるだろうし、「女」を意識することもないだろう。当然、句など涌いてはこない。多く人は、マイナス・イメージから自分を発見する。ところで、こんな句も見つけた。「憎しみのごと爪立てて夏柑剥く」(後藤綾子)。そうか、ニッチもサッチもいかなくなったら「憎しみ」を援軍に呼べばいいのか……。こういう思いは、「男」にはなかなか起きないものだ。むしろこの句のほうに、私は「女」を感じさせられた。『今はじめる人のための俳句歳時記』(1997・角川書店)所載。(清水哲男)


April 2742001

 つちふるや嫌な奴との生きくらべ

                           藤田湘子

語は「つちふる」で春。漢字では「霾(ばい)」なる難しい文字で表記し、定義は風の巻き上げた砂塵が空中にかかったり降ったりすること。雨冠の下の「豸(むじな)偏に里」という字には「埋める」という意味があるそうだ。我が国の気象用語では、おしゃれに「黄砂」と言っている。こいつが発生すると、あちらこちらがじゃりじゃりとして、まことに鬱陶しいかぎりだ。「嫌な奴」のように、いちいち神経に触る。この句のよさは、還暦以前の若い読者には伝わらないかもしれない。言っている意味を表面的には受け止められても、何故こんなことを句にするのかと、作者の真意を測りかねる人が大半だろう。むろん還暦後ぴったりというわけではないけれど、その年齢あたりから、人は常に「死」を意識しはじめる。病床にある人のように濃厚ではないが、何かのきっかけで「死」がひょいと顔を出す。駆け出しの六十代である私なども、一度も「死」を思わない日はなくなってしまった。起床すると「死」を思い、逆に言えば生きていることの不思議を思い、そんなときには何故か「死んでたまるか」と一人力み返るのだから滑稽でもある。たぶん、黄色い微小な砂粒を浴びながらはるか年長の作者が思うことも、程度の差はあれ、同じような気がする。「生きくらべ」は稚気丸出しの表現に見えて、老人には刹那的に切実なそれなのだ。とにかく、自分がいま死んだら「嫌な奴」に負けてしまう。でも、かといって、そいつよりも長生きすることを、今後の生き甲斐にするわけでもないのである。ふっとそう思い、ふっと吐いてみたまで……。一瞬の恣意的な「生きくらべ」なのであり、年寄りの心の生理に、実にぴったりと通う句ができた。「俳句」(2001年5月号)所載。(清水哲男)


April 2842001

 蛙囃せ戦前小作今地主

                           中元島女

戦後しばらくの間ならば、誰もが知っていた「農地改革」を知らないと、理解できない。そこで、手元の『広辞苑』を引いてみる。「(前略)GHQの指令に基づき第二次大戦後の民主化の一環として1947〜50年に行われた土地改革。不在地主の全所有地と、在村地主の貸付地のうち都府県で平均1町歩、北海道で4町歩を超える分とを、国が地主から強制買収して小作人に売り渡した。この結果、地主階級は消滅し、旧小作農の経済状態は著しく改善された」。おおむね正しい説明だけれど、最後の件りは必ずしも正しくないよと、当時の現場の人が言っているのだ。アメリカさんのおかげで「小作」の身分から解放され、自分も夢のような「地主」になることができた。が、経済状態は改善されるどころか、以前よりも苦しくなってしまった。そういうことを、言っている。呑気な現代の辞書のライターにはわかるまいが、在来の大地主がしぶしぶ手放した土地は、多く痩せた土地だったのだ。証拠は、往時の実りの秋を迎えたときに、そこらへんの田畑を見回してみるだけで、子供にすら隠しようもないほどに明白に現われていた。肥沃な土地と痩せた土地との格差は大きい。つまり、アメリカさんは面積の「民主主義」を強制しただけで、肥沃のそれは抜かしてしまったのである。迂闊と言うよりも、ヘリコプターで種を蒔くようなアメリカとの農地の差を、彼らが理解していなかったせいである。だから、せっかくの新米地主も、農民にとっての多忙な黄金週間に、つい愚痴の一つも吐きたくなったというのが、この句だ。「蛙囃(はや)せ」には、名前だけは立派な「地主」たる自分を滑稽に突き放してはみたものの、泣き笑いもかなわぬ不安の心が浮き上がっている。上手な句ではないけれど、このように時代を簡潔に記録することも俳句の得手だという意味で、紹介してみた次第。他意はない。いや、少しはあるかな。ある。『俳諧歳時記・春』(1951・新潮文庫)所載。(清水哲男)


April 2942001

 春の雨郵便ポストから巴里へ

                           浅井愼平

者は、ご存知のカメラマン。雨降りの日に投函するとき、傘をポストにさしかけるようにして出しても、ちょっと手紙が濡れてしまうことがある。私などは「あっ、いけねえ」としか思わないが、なるほど、こういうふうに想像力を働かせれば、濡れた手紙もまた良きかな。この国のやわらかい「春の雨」が、手紙といっしょに遠く「巴里(パリ)」にまで届くのである。彼の地での受取人が粋な人だったら、少しにじんだ宛名書きを見ながら、きっと日本の春雨を想像することだろう。そして、投函している作者の様子やポストの形も……。手紙の文面には書かれていない、もう一通の手紙だ。愼平さんの写真さながらに、知的な暖かさを感じさせられる。本来のウイットとは、こういうものだろう。手紙で思い出した、昔のイギリスでのちょっといい話。遠く離れて暮らす貧しい姉弟がいた。弟の身を気づかう姉は、毎日のように手紙を出した。しかし、配達夫が弟に手紙を届けると、彼は必ず配達夫に「いらないから」と戻すのだった。受取拒絶だ。当時の郵便料金は受取人払いだったので、貧しい彼には負担が重すぎたのだろう。ある日、たまりかねて配達夫が言った。「たまには、読んであげたらどうでしょう」。すると弟は、封筒を日にかざしながら微笑した。「いや、いいんですよ。こうやって透かしてみて、なかに何も入っていなかったら、姉が元気でやっているというサインなのですから」。イギリスは、郵便制度発祥の地である。『二十世紀最終汽笛』(2001・東京四季出版)所収。(清水哲男)


April 3042001

 鳥篭の中に鳥とぶ青葉かな

                           渡辺白泉

葉の季節。軒先に吊るされた「鳥篭」のなかで、鳥が飛ぶ。普通に読んで、平和な初夏の庶民的なひとときがイメージされる。もう少し踏み込んで、青葉の自然界に出るに出られぬ篭の鳥の哀れを思う読者もいるだろう。いずれにしても、このあたりで私たちの解釈は止まる。それで、よし。ところで、この句は敗戦後三年目の作品だ。作者の白泉は、戦前の言論弾圧で検挙された履歴を持つ。戦前句には「憲兵の前で滑つてころんじやつた」「戦争が廊下の奥に立つてゐた」などがある。こういうことを知ってしまうと、解釈は一歩前進せざるを得なくなる。時こそ移れ、時代が如何に変わったとしても、白泉の時代揶揄や社会風刺の心は生きていると思うと、掲句をその流れにおいて読むということになる。すなわち、戦後民主主義批判の句であると……。主権在民男女平等などは、しょせん篭の鳥のなかで飛ぶ鳥くらいの自由平等じゃないかと……。こう読むと、せっかくの美しい青葉の情景も暗転してしまう。イヤな感じになる。俳人はよく「一句屹立」と言う。いわゆるテキストだけで、時代を越えて永遠の生命を得たいという夢を託した言葉だ。その意気は、ひとまずよしとしよう。だが、「そんなことができるもんか」というのが私の考えだ。あのメーテルリンクの教訓劇『青い鳥』の鳥だって、最後には逃げてしまい、いまだに行方不明なのだ。「一句屹立」の行き着くところは、束の間の青い鳥を自前の鳥篭で飛ばそうとすることでしかない。時代が変われば、解釈も変わるのだ。その証拠が、たとえば掲句である。白泉の仕込んだワサビは、もはや誰にも効かなくなった。『昭和俳句選集』(1977)所載。(清水哲男)




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