春休みは、宿題がないので嬉しかった。もっとも私の時代には「東映マンガ祭り」もなかったけれど。




2001ソスN4ソスソス2ソスソスソスソス句(前日までの二句を含む)

April 0242001

 一服の茶をげんげ田にかしこまる

                           太田土男

圃一面に咲く紫雲英(げんげ)の花の光景は、昔の農村では日常的なものだった。やがて鋤かれて、土に混ぜ合わされてしまう。肥料になるわけで、鋤かれるのを見ていても、感傷に誘われるようなことはなかった。また来春になれば、必ず同じ光景が戻ってくるからだ。この句を読んで思い出されたのは、視覚的な花ではなく、触覚的な「げんげ」だ。花が咲くと、女の子はもちろん、男の子も「げんげ田」に座り込んで、花輪作りなどをして遊んだ。その座り込んだ感覚が、半世紀という時間を経てよみがえってきた。どんなに天気が良い日でも、花の上に坐ると湿っぽくてひんやりとしていた。掲句は、野良仕事の合間のティー・タイムである。「かしこまる」は、いろいろな意味に取れるが、私はずばり「正座」だと読む。句が作られたのは二十年ほど前のことだから、畦道に置いてあった茶は、たぶん魔法瓶に詰められていただろう。私の頃には薬罐だったので、飲むころには冷たくなっていた。どちらでもよいけれど、茶は「いただく」ものである。したがって、おのずから自然に「正座」となる。この湿っぽく冷たい「げんげ」の感触があってこそ、はじめて春の野良で喫する茶の美味さが味わえる。茶に限らず、まだ日本人には立ち飲み、立ち食いの習慣はなかった。はしたないことと、されていた。そのころ覚えた歌に、西條八十の「お菓子と娘」がある。一節に「選る間も遅し エクレール/腰もかけずに むしゃむしゃと/食べて口拭く 巴里娘」とあり、仰天した。でも、巴里(パリ)のお姉さんたちって奔放で恰好いいんだなあとも思った。後年はじめてパリに行ったときに、当然思い出した。意識して「巴里娘」を見ていると、お菓子をほおばりながら歩いている女性はいるはずもなく、くわえ煙草で歩く若い女性たちが目についた。たいていが「パルドン」を連発しながら、人を蹴飛ばすようにして歩いていた。恰好悪いなと思った。最近のの日本でも、くわえ煙草の女性が目立ってきた。家やオフィスでは、喫えないからだろう。でも、恰好よい娘はほとんど見かけない。格好良く煙草を喫うのは、とても難しいのだ。あれっ、また脱線しちゃったかな……(苦笑)。『太田土男集』(2001)所収(清水哲男)


April 0142001

 花影婆裟と踏むべくありぬ岨の月

                           原 石鼎

野山での句。「花は吉野か」と、吉野の山桜は有名だ。肌寒いほどの夜だろう。月は朧ではなく、煌々と冴え返っている。その月光が、岨(そば)道に「花影(かえい)」を落としている。「婆裟(ばさ)と踏むべく」で、作者の頭上に群がり咲いている花の豪華な量感が知れる。踏めば、影でも「婆裟」と音がしそうだ……。ざっくりと詠んでいるようでいて、実に緻密な構造を持っている句だ。五七五だけで、よくもこんなことが言えるものだと感心させられてしまう。秘密の一端は「岨の月」という極度の省略表現にある。試みに掲句を外国語に翻訳してみようとすると、この部分はとても厄介だ。どうしても、説明が長くなる。長くなると、句の情感が色褪せる。かつて篠原梵が「切れ字は俳句界の隠語だ」というようなことを言ったことがあるけれど、この省略表現もまた、俳句に慣れない人には隠語みたいに感じられるかもしれない。とにかく、俳句特有の省略法である。以下は、また脱線。「花影」は普通樹に咲いている花の影を言うが、散っている花の影を指した珍しい詩がある。大村主計の書いた童謡「花かげ」に「十五夜お月さま ひとりぼち/桜吹雪の 花かげに/花嫁すがたの おねえさま/くるまにゆられて ゆきました}とある。こちらの月は朧だろう。それにしても「桜吹雪」の花影とは。センチメンタルな道具立てに凝りすぎたようで、情景がピントを結んでくれない。私の感受性が変なのかもしれないが、夜の歌という気もしない。したがって同じ月夜の桜でも、この場合は俳句の圧勝である。『花影』所収。(清水哲男)


March 3132001

 天才に少し離れて花見かな

                           柿本多映

作です。笑えます。何の「天才」かは知らねども、天才だって花見くらいはするだろう。ただ「秀才」ならばまだしも、なにしろ敵は天才なのだからして、花を見て何を思っているのか、わかったものじゃない。近くにいると、とんでもない感想を吐かれたりするかもしれない。いやその前に、彼が何を思っているのかが気になって、せっかくの呑気な花見の雰囲気が壊れてしまいそうだ。ここは一番、危うきに近寄らずで行こう。「少し離れて」、いわば敬遠しながらの花見の図である。でもやはり気になって、ときどき盗み見をすると、かの天才は面白くも何ともないような顔をしながら、しきりに顎をなでている。そんなところまで、想像させられてしまう。掲句を読んで突然思い出したが、一茶に「花の陰あかの他人はなかりけり」という句があった。花見の場では、知らない人同士でも、なんとなく親しみを覚えあう。誰かの句に、花幕越しに三味線を貸し借りするというのがあったけれど、みな上機嫌なので、「あかの他人」との交流もうまくいくのだ。そんな人情の機微を正面から捉えた句だが、このときに一茶は迂闊にも「あかの他人」ではない「天才」の存在を忘れていた。ついでに、花見客の財布をねらっている巾着切りのことも(笑)。掲句は「俳句研究」(2001年4月号)に載っていた松浦敬親の小文で知った。松浦さんは「取合わせと空間構成の妙。桜の花も天才も爆発的な存在で、出会えば日常性が破られる。『少し離れて』で、気品が漂う」と書いている。となると、この天才は岡本太郎みたいな人なのかしらん(笑)。(清水哲男)




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