京大上京。国立大学に経営能力を問うのは一応是としても、経済に役立たぬ学問が捨てられる恐さも。




2001ソスN4ソスソス3ソスソスソスソス句(前日までの二句を含む)

April 0342001

 春うらら上がる下がると京の街

                           浅見優子

学時代の下宿の位置を京都駅から説明すると、駅前の烏丸通をまっすぐ「上がって」いくと烏丸車庫に突き当たり、そこから立命館高校ガ見えるので、裏手の小山初音町に回り込み、三味線の音が聞こえてきたら(大家さんは長唄のお師匠さん)、その家の二階が私の部屋であった。京都に住んでしまえば「上がる下がる」は「東入る西入る」とともに便利な方向指示用語だけれど、最初は戸惑った。京都のように整然と東西南北に走る道筋を知らなかったので、かえってまごつくことになった。要するに、道はまがりくねっているものという先入観が、なかなか払拭できなかったからだ。作者も、同様だろう。旅の人ゆえ、戸惑いすらもが面白く、春の「麗か」(季語)さが増幅される気分になっている。なぜ「上がる下がる」なのかと言えば、「天子は南面す」る存在であるから、天子は常に北を背にしている。したがって、北におわします天子に近づくのが「上がる」で、遠ざかるのが「下がる」という理屈だ。だから、江戸時代の江戸で出た地図も「上方(かみがた)」である西を上にして描かれている。西洋流の北を上にする描き方を知らなかったわけではないはずだが、おそれおおいということで西側を上に持ってきたのだろう。ただし「御城(江戸城)」という図上の表記は真っ逆さまだ。とても変な感じだけれど、これは暗に天子に足を向けた「御城」の権威を表している。天子を形式的にうやまいつつも、実質的な権力の象徴としての「御城」の権威をも、同一画面に同時に描こうとした地図師の苦肉の策だったかと思われる。「春うらら」とは遠い話になってしまった。「朝日俳壇」(「朝日新聞」2001年4月2日付)所載。(清水哲男)


April 0242001

 一服の茶をげんげ田にかしこまる

                           太田土男

圃一面に咲く紫雲英(げんげ)の花の光景は、昔の農村では日常的なものだった。やがて鋤かれて、土に混ぜ合わされてしまう。肥料になるわけで、鋤かれるのを見ていても、感傷に誘われるようなことはなかった。また来春になれば、必ず同じ光景が戻ってくるからだ。この句を読んで思い出されたのは、視覚的な花ではなく、触覚的な「げんげ」だ。花が咲くと、女の子はもちろん、男の子も「げんげ田」に座り込んで、花輪作りなどをして遊んだ。その座り込んだ感覚が、半世紀という時間を経てよみがえってきた。どんなに天気が良い日でも、花の上に坐ると湿っぽくてひんやりとしていた。掲句は、野良仕事の合間のティー・タイムである。「かしこまる」は、いろいろな意味に取れるが、私はずばり「正座」だと読む。句が作られたのは二十年ほど前のことだから、畦道に置いてあった茶は、たぶん魔法瓶に詰められていただろう。私の頃には薬罐だったので、飲むころには冷たくなっていた。どちらでもよいけれど、茶は「いただく」ものである。したがって、おのずから自然に「正座」となる。この湿っぽく冷たい「げんげ」の感触があってこそ、はじめて春の野良で喫する茶の美味さが味わえる。茶に限らず、まだ日本人には立ち飲み、立ち食いの習慣はなかった。はしたないことと、されていた。そのころ覚えた歌に、西條八十の「お菓子と娘」がある。一節に「選る間も遅し エクレール/腰もかけずに むしゃむしゃと/食べて口拭く 巴里娘」とあり、仰天した。でも、巴里(パリ)のお姉さんたちって奔放で恰好いいんだなあとも思った。後年はじめてパリに行ったときに、当然思い出した。意識して「巴里娘」を見ていると、お菓子をほおばりながら歩いている女性はいるはずもなく、くわえ煙草で歩く若い女性たちが目についた。たいていが「パルドン」を連発しながら、人を蹴飛ばすようにして歩いていた。恰好悪いなと思った。最近のの日本でも、くわえ煙草の女性が目立ってきた。家やオフィスでは、喫えないからだろう。でも、恰好よい娘はほとんど見かけない。格好良く煙草を喫うのは、とても難しいのだ。あれっ、また脱線しちゃったかな……(苦笑)。『太田土男集』(2001)所収(清水哲男)


April 0142001

 花影婆裟と踏むべくありぬ岨の月

                           原 石鼎

野山での句。「花は吉野か」と、吉野の山桜は有名だ。肌寒いほどの夜だろう。月は朧ではなく、煌々と冴え返っている。その月光が、岨(そば)道に「花影(かえい)」を落としている。「婆裟(ばさ)と踏むべく」で、作者の頭上に群がり咲いている花の豪華な量感が知れる。踏めば、影でも「婆裟」と音がしそうだ……。ざっくりと詠んでいるようでいて、実に緻密な構造を持っている句だ。五七五だけで、よくもこんなことが言えるものだと感心させられてしまう。秘密の一端は「岨の月」という極度の省略表現にある。試みに掲句を外国語に翻訳してみようとすると、この部分はとても厄介だ。どうしても、説明が長くなる。長くなると、句の情感が色褪せる。かつて篠原梵が「切れ字は俳句界の隠語だ」というようなことを言ったことがあるけれど、この省略表現もまた、俳句に慣れない人には隠語みたいに感じられるかもしれない。とにかく、俳句特有の省略法である。以下は、また脱線。「花影」は普通樹に咲いている花の影を言うが、散っている花の影を指した珍しい詩がある。大村主計の書いた童謡「花かげ」に「十五夜お月さま ひとりぼち/桜吹雪の 花かげに/花嫁すがたの おねえさま/くるまにゆられて ゆきました}とある。こちらの月は朧だろう。それにしても「桜吹雪」の花影とは。センチメンタルな道具立てに凝りすぎたようで、情景がピントを結んでくれない。私の感受性が変なのかもしれないが、夜の歌という気もしない。したがって同じ月夜の桜でも、この場合は俳句の圧勝である。『花影』所収。(清水哲男)




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