桜の花言葉は「精神美」。いまどきの世相にふさわしく、今日も「精神美」がどんどん散っていくぞ。




2001ソスN4ソスソス10ソスソスソスソス句(前日までの二句を含む)

April 1042001

 山桜輪吊りにまはし売り軍手

                           加倉井秋を

かと見紛う真っ白い山桜が咲きはじめた。取り合わせて、真新しい白い軍手(ぐんて)。「輪吊りにまはし」とは面白い言い回しだが、小さな洗濯物を干すときに使う輪状の物干しにぐるりと軍手が吊り下げられている。この白色と白色との取り合わせに、何を思うか。それは、読者が「軍手」に何を思うかによって決定されるだろう。大きく分ければ、二通りに読める。農事に関わる人ならば、軍手は労働に欠かせない手袋だ。ちょうど山桜が咲く頃に農繁期に入るので、万屋(よろずや)の店先で新しい軍手を求めているのである。店の裏山あたりでは、山桜がぽつぽつと咲きはじめているのが見える。毎春のことながら「さあ、忙しくなるぞ」と、自分に言い聞かせている。また一方で、ちょっとした登山の好きな人ならば、登山道の入り口ちかくに軒を連ねている店を連想するだろう。軍手は、山菜採りなどで怪我をしないために使う。これから登っていく山を見上げると、そこここに山桜がまぶしい。軍手を一つ買い杖も一本買って、準備完了である。さあ、わくわくしながらの出発だ。いずれの読みも可能だが、私の「軍手」のイメージは、どうしても農作業に結びついてしまう。ごわごわとした真新しい軍手をはめるときの感触は、いまだに記憶に残っている。ちなみに、なぜこの手袋を「軍手」と呼ぶのだろうか。旧陸海軍の兵士たちが使っていたからというのが、定説である。『俳諧歳時記・春』(1968・新潮文庫)所載。(清水哲男)


April 0942001

 垣破れ繕はず人笑ひ住み

                           上野 泰

ば隠れているが、季語は「垣繕ふ(かき・つくろう)」で春。元来は北国の情景に用いられ、冬季の風雪にいたんだ垣根を春に修理することである。が、たとえば虚子に「古竹に添へて青竹垣繕ふ」とあるように、とくに北国に限定して使わなくてもよさそうだ。暖かい日差しのなかで庭仕事をしている人を見かけると、春到来の喜びが感じられる。掲句の家は「人」とあるから、自宅ではなく近所の家だろう。他人の家ながら、通りかかるたびに垣根が気になるほどいたんでいる。しかし、住む人たちはそういうことに無頓着らしく、修繕しようとする気配も感じられない。毎春のことである。家の中からはいつも誰かの笑い声が聞こえてきて、無精だが明るい家庭なのだ。こうした暮らし方もいいなあと、作者はほのぼのと明るい気持ちになっている。おそらく、作者は逆に几帳面な人だったに違いない。几帳面だからこそ、無頓着に憧憬の念を覚えている。無精者が破れ垣を見ても、句にしようなどとは思いつきもしないだろう。上野泰の魅力は、捉えたディテールを一瞬のうちに苦もなく拡大してみせる芸にある。それも、ほがらかな芸だ。見られるように、「破れ垣」と「笑い声」を取りあわせただけで、住む「人」の暮らしぶりの全体を浮き上がらせてしまう。上手な句ではないにしても「春雨の積木豪華な家作り」などを見ると、この「豪華」なる言葉遣いに芸の秘密を垣間見る思いがする。かくも素早くあっけらかんと「豪華」を繰り出せる豪華な感性。感性の地肩が、めっぽう強いのである。『春潮』(1955)所収。(清水哲男)


April 0842001

 虚子の忌の写真の虚子の薄笑ひ

                           大野朱香

日、四月八日は高浜虚子の命日。1959年(昭和三十四年)没。「椿壽忌」とも称される。このときに私は大学生だったが、何も覚えていない。新聞は、一面でも大きく扱ったはずだけれど……。掲句は、なんといっても「薄笑ひ」が効いている。作者がどんな写真を見ているのかはわからないが、おそらくは微笑を湛えているであろう一見柔和な表情に、そうではないものを嗅ぎ取っている。小人(しょうじん)どもには、しょせん俺のことなどわかるまい。皮肉と侮蔑が入り交じったような、向き合う者をじわりと威圧するような、そんな表情に見えているのだ。虚子忌の句は掃いて捨てるほどあり、今日もたくさん作られるだろうが、微笑の奥に「薄笑ひ」を読んだ掲句の鮮烈さにかなう句を、他に知らない。しかも作者が、意地悪で作句しているのではないところに注目。虚子を巨人と思うからこその発想で、いささか敬遠気味ではあるとしても、虚子の大きさを的確に言い当てている。俳句的な腰は、ちゃんと入っている。ところで、これはいつかも書いたことだが、俳句では命日をやたらと季語にする風潮がある。人はどんどん死んでゆくから、忌日の季語もどんどん増えていく。反対だ。理由は単純。「○○忌」と作句されても、そんなのいちいち覚えちゃいられないからだ。命日と季節は、第三者には関係がつけられない。したがって、季語とは言えない。頼むから、仲間内だけでやってくれ。『今はじめる人のための俳句歳時記・春』(1997・角川書店)所載。(清水哲男)




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