そろそろ「つつじ」の開花期。車の交通量が多い道路端から咲いていく。イタイタしい感じがします。




2001ソスN4ソスソス11ソスソスソスソス句(前日までの二句を含む)

April 1142001

 むつとしてもどれば庭に柳かな

                           大島蓼太

太(りょうた)は、十八世紀江戸の人。例の「世の中は三日見ぬ間に桜かな」の俳人だ。「むつとして」と口語を使っているのが、面白い。いまどきなら「むかついて」とやるところか(笑)。表で、何か不愉快なことがあった。むかむかしながら帰宅すると、庭では柳が風を受け流すようにして超然と静かに揺れている。些細なことに腹を立てている自分が、小さい人間に思われて恥ずかしいと言うのだろう。むろん、目にしみるような柳の美しさに、立腹に荒れた心が癒されてもいる。桜の句もそうだが、かなり教訓を垂れようとする色合いが濃い。また、そう読まなければ読みようがない。このように詩歌に教訓や人生訓を持ち込む流れは、昔から脈々としてつづいてきた。高村光太郎などはお得意だったし、宮澤賢治の一部の詩もそうだし、現代の書き手にも散見される。投稿作品には、どういうわけか実に多い。子供の頃は別(賢治の「稲作挿話」には感動した)として、やがて私はこういう流れが苦手となり、出会うたびにそれこそ「むつとして」きた。詩歌に生き方まで教えてほしくないよ、「東へ西へ歩け歩け」(光太郎)だなんて余計なお世話じゃないか……。ただし、このテの作者の美質はとにかく生真面目なところにあり、私など不良は恥じ入るばかりだ。だから「むつとして」も、なかなか面と向かっては物を言えないできた。不幸にも我が家の庭には柳もないことだし、どうすればよかんべえか。(清水哲男)


April 1042001

 山桜輪吊りにまはし売り軍手

                           加倉井秋を

かと見紛う真っ白い山桜が咲きはじめた。取り合わせて、真新しい白い軍手(ぐんて)。「輪吊りにまはし」とは面白い言い回しだが、小さな洗濯物を干すときに使う輪状の物干しにぐるりと軍手が吊り下げられている。この白色と白色との取り合わせに、何を思うか。それは、読者が「軍手」に何を思うかによって決定されるだろう。大きく分ければ、二通りに読める。農事に関わる人ならば、軍手は労働に欠かせない手袋だ。ちょうど山桜が咲く頃に農繁期に入るので、万屋(よろずや)の店先で新しい軍手を求めているのである。店の裏山あたりでは、山桜がぽつぽつと咲きはじめているのが見える。毎春のことながら「さあ、忙しくなるぞ」と、自分に言い聞かせている。また一方で、ちょっとした登山の好きな人ならば、登山道の入り口ちかくに軒を連ねている店を連想するだろう。軍手は、山菜採りなどで怪我をしないために使う。これから登っていく山を見上げると、そこここに山桜がまぶしい。軍手を一つ買い杖も一本買って、準備完了である。さあ、わくわくしながらの出発だ。いずれの読みも可能だが、私の「軍手」のイメージは、どうしても農作業に結びついてしまう。ごわごわとした真新しい軍手をはめるときの感触は、いまだに記憶に残っている。ちなみに、なぜこの手袋を「軍手」と呼ぶのだろうか。旧陸海軍の兵士たちが使っていたからというのが、定説である。『俳諧歳時記・春』(1968・新潮文庫)所載。(清水哲男)


April 0942001

 垣破れ繕はず人笑ひ住み

                           上野 泰

ば隠れているが、季語は「垣繕ふ(かき・つくろう)」で春。元来は北国の情景に用いられ、冬季の風雪にいたんだ垣根を春に修理することである。が、たとえば虚子に「古竹に添へて青竹垣繕ふ」とあるように、とくに北国に限定して使わなくてもよさそうだ。暖かい日差しのなかで庭仕事をしている人を見かけると、春到来の喜びが感じられる。掲句の家は「人」とあるから、自宅ではなく近所の家だろう。他人の家ながら、通りかかるたびに垣根が気になるほどいたんでいる。しかし、住む人たちはそういうことに無頓着らしく、修繕しようとする気配も感じられない。毎春のことである。家の中からはいつも誰かの笑い声が聞こえてきて、無精だが明るい家庭なのだ。こうした暮らし方もいいなあと、作者はほのぼのと明るい気持ちになっている。おそらく、作者は逆に几帳面な人だったに違いない。几帳面だからこそ、無頓着に憧憬の念を覚えている。無精者が破れ垣を見ても、句にしようなどとは思いつきもしないだろう。上野泰の魅力は、捉えたディテールを一瞬のうちに苦もなく拡大してみせる芸にある。それも、ほがらかな芸だ。見られるように、「破れ垣」と「笑い声」を取りあわせただけで、住む「人」の暮らしぶりの全体を浮き上がらせてしまう。上手な句ではないにしても「春雨の積木豪華な家作り」などを見ると、この「豪華」なる言葉遣いに芸の秘密を垣間見る思いがする。かくも素早くあっけらかんと「豪華」を繰り出せる豪華な感性。感性の地肩が、めっぽう強いのである。『春潮』(1955)所収。(清水哲男)




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