蜥梧ケ夜聞蜈ュ縺ョ句

April 1742001

 戦意なき男がぬつと目借時

                           和湖長六

は眠い。わけても蛙の単調な鳴き声を聞いていると、ついうつらうつらと眠くなってくる。この生理的現象は、さながら蛙に目を借りられたようなものだと言う人がいて、春の季語「(蛙の)目借時」が登場した。変な季語もあったものだが、江戸期には多くの人々のコンセンサスを得られたのだろう。全国、どこでも蛙の単調にして共通な斉唱が聞かれた時代だった。現代人である作者は、蛙の声と関係があるのかないのかは不明だが、とにかくうつらうつらと睡魔に襲われている。寝てはいけないと、みずからを叱咤してみるが、眠いものは眠いのだ。と、そこに「ぬつ」と入ってきたのが「戦意なき男」だったのだから、たまらない。眠気は、いよいよ増すばかりとなった。誰かが訪ねてくれば、たいていは少しは気持ちがしゃきっとするものだ。それが反対に作用していると言うのだから、面白い。「ぬつ」と訪ねてきた男の、ヌーボーとした風貌までが見えるようだ。むろん、お互いにツーカーの仲である。したがって、まったく緊張関係がない。こいつにまで、「目」を借りられちゃいそうだ……。ここで、思い出した。その昔のラジオの生放送中に、相棒の女性(特に名を秘す)がいやに寡黙になったと思ったら、あろうことか、実にすやすやとお眠りになっていた。ということは、彼女にとっての私は、まさに「戦意なき男」だったようだ。そう思われても、たしかに仕方のない男ではありますな、ハイ。『林棲記』(2001)所収。(清水哲男)


July 1972001

 「実入れむ実入れむ」田を重くする蝉時雨

                           和湖長六

わゆる「聞きなし」である。鳥のさえずりなどの節まわしを、それに似たことばで置き換えることだ。地方によっても違うだろうが、たとえばコノハズクの「仏法僧」、ホオジロの「一筆啓上仕り候」、ツバメの「土喰うて虫喰うて口渋い」、コジュケイの「ちょっと来い、ちょっと来い」などが一般的だろう。米語にもあるようで、コジュケイは「People pray」だと物の本で知った。日本人のある人には「かあちゃん、こわい」としか聞こえないそうだ(笑)。このように、鳥の「聞きなし」は普通に行われてきたが、掲句のような蝉のそれには初めてお目にかかった。「蝉時雨」だから何蝉ということではなく、作者には集団の鳴き声が「実入れむ実入れむ」と聞こえている。青田を圧するように鳴く蝉たちの声を聞いているうちに、自然にわき上がってきた言葉だから、無理がない。それにしても、こんなにも連日やかましく「実入れむ」と激励されるとなると、いよいよ田の責任は重大だ。「田を重くする」は、そんな田の心情(!)と、田を押さえつけるような蝉時雨の猛烈さとを、諧謔味をまじえて重層的に表現していて納得できる。この夏、信州に行く。あの一面の青田に出会ったら、きっとこの句を思い出すだろう。はたして「実入れむ」と聞こえるかどうか。楽しみだ。『林棲記』(2001)所収。(清水哲男)


October 23102001

 月光を纏ひしものに誰何さる

                           和湖長六

の光の美しい夜。ほろ酔い加減で機嫌よく家路をたどっていると、前方をさえぎるように人影が現われ、いきなり「誰何(すいか)」された。「どこ行くの」「どこから来たの」「いつも、ここ通るの」。警官である。私にも経験があるが、あれは不快というよりも、驚きの念のほうが先に来る。不快は、後からやってくる。そして、やり取りをしているうちに落ち着いてくると、だんだんと不思議な気持ちになってくるのだ。身に覚えはないことながら(「だからこそ」か)、何かを疑われているという気分は、妙なものである。なんだか小説か映画か、架空の世界に入り込んだような感じになり、思わずあたりを見回してしまう。掲句は、そんな心持ちを、警官に「月光」を纏(まと)わせることで表現しているのではなかろうか。闇夜ならば闇に溶けてしまいそうな黒っぽい警官の制服が、月夜だから独特な光彩を放って浮かび上がっているのだ。実際には浮かび上がるわけもないけれど、そんなふうに感じられたということ。およそ温度を感じさせない冷たい月明による制服の光彩が、否応なく作者を架空の世界に連れていったということだろう。他にもいろいろに読めるとは思うが、「誰何」と「月光」との取り合わせは面白い。後を引くイメージだ。『林棲記』(2001)所収。(清水哲男)


December 04122001

 狸罠仕掛けて忘れ逝きにけり

                           和湖長六

語は「狸罠(たぬきわな)」で冬。作物を荒らすので、農家にとっては天敵の狸ども。こいつをひっとらえるための道具が「狸罠」で、狸が通る道は決まっていることから、その習性を利用して仕掛けておく。仕掛けたからには見回って歩くわけだが、掲句の主人公は仕掛けたことすら忘れてしまい、そのうちにぽっくりと逝ってしまった。句が実話か想像の産物かは問題ではなく、人の死のあっけなさを詠んで秀逸だ。いつか私が死ぬときも、まさか実際に罠を仕掛けることはないけれど、一つくらいは何かを仕掛けておきながら、すっかり失念したままに逝ってしまうのだろうと思わせられた。このときに失念が、死にゆく者のせめてもの幸福となる。失念が無かったら、死んでも死に切れないだろう。一種滑稽な味わいのなかで、作者はちゃんと死者を救っている。私の田舎では、狸よりも猪による被害のほうが甚大だった。猪には罠では間に合わないので、この季節になると大人たちは犬を連れて山に入り、猟銃で射殺した。いまでは猿の跋扈に悩まされていると聞くが、どんな対策を講じているのか。しかし、いくら害をもたらすといっても、やはり生命あるものを手にかけるのは辛いものがある。鶴丸白路に「逃げてゐてくれし狸や狸罠」がある。本音である。『林棲記』(2001)所収。(清水哲男)


January 0112002

 花火もて割印とせむ去年今年

                           和湖長六

語は「去年今年(こぞことし)」で新年。午前零時を過ぎれば大晦日も去年であり、いまは今年だ。掲句は、おそらくカウントダウン・ショーで打ち上げられる「花火」を見ての即吟だろう。華やかに開きすぐに消えていく「花火」を「割印(わりいん)」に見立てたところが機知に富んでいるし、味わい深い。「割印」といえば、互いに連続していることを証するために、印鑑を二枚の書面にまたがるようにして捺すことである。何ページかにまたがる重要書類などに捺す。それを掲句では、去年と今年の時の繋ぎ目に「花火」でもって捺印しようというのだから、まことに気宇壮大である。と同時に、捺しても捺しても、捺すはしから消えていくはかなさが、時の移ろいのそれに、よく照応している。高浜虚子の有名な句に「去年今年貫く棒の如きもの」がある。このときに虚子は「棒の如きもの」と漠然とはしていても、時を「貫く」力強い自負の心を抱いていた。ひるがえって掲句の作者には、そうした確固たる自恃の心は持ちようもないというわけだ。精いっぱい気宇を壮大にしてはみるものの、気持ちにはどこかはかなさがつきまとう。多くの現代人に共通する感覚ではあるまいか。『林棲記』(2001)所収。(清水哲男)


May 1452003

 ナイターの黒人の眼にふと望郷

                           和湖長六

ょっと説明的かな。その点は惜しいけど、野球をテレビではなく球場でよく見ている人の句だと思った。サッカーなどとは違って、野球は休み休みやるスポーツだ。選手も観客も常にハイ・テンションでいるわけではなく、緊張感に緩急がある。そこが心地よい。だから観客は、ビールを飲んだり弁当を食べたりすることもできる。それがテレビで観ると、とにかく画面は無理にでも緊張を強いるように演出され作られているので、球場での楽しみの半分は減殺されてしまう。遠くの方で、ぽつんと取り残されているような選手の姿を写すことはない。作者は黒人選手の眼に、ふと彼の「望郷」の念を嗅ぎ取っているが、これも球場ならではの感じ方だ。テレビだと、どんな外国人選手も、仕出し弁当のようにそこに存在するのが当然だとしか見えないが、スタンドからは違う。「ああ、遠くからやってきた男なんだ」と、ひとりでに感じられる。だから、望郷という言葉にも違和感はない。掲句を読んで、それこそ「ふと」思い出されたのは、60年代の後半にヤクルトにいたルー・ジャクソン外野手のことだ。「褐色の弾丸」と言われて私も好きな選手だったが、グラウンドでの姿はいつもどこか寂し気だった。「助っ人」の哀しみを背負ったような男だった。そこそこの成績は残していたのだが、四年目の初夏のころだったか、突然打席のなかで倒れ、二度と立ち上がれずに死んだ。一説によると、日本の食事が口に合わず、焼鳥ばかり食べつづけた結果だという。遺体は、横田基地から軍用機でタンパに運ばれた。『林棲記』(2001)所収。(清水哲男)




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