April 202001
もの問へば接穂くはえてゐたりけり
飴山 實
季語は「接穂(つぎほ)」で、春。接ぎ木をするときに、砧木(だいぎ)に接ぐ芽の付いた枝のことを言う。「話の接穂がない」などは、ここから出た言葉だ。何やら農作業をしている人に、道でも尋ねたのだろうか。振り向いた人が、接穂を口にくわえていた。ただそれだけのことながら、くわえられた接穂が、あざやかに春の息吹を感じさせる。それも、その人が振り向いた一瞬を捉えての描写なので、余計にあざやかな印象を残す。こうした表現は、俳句でなければ実現できないことの一つだろう。接ぎ木は、いわば夢の実現を目指す伝統的なテクニックである。渋柿の木に甘い柿がなってくれたらと、遺伝子などという考えもない昔の人が、試行錯誤をくりかえしながら開発した方法だ。物事の不可能を表す言葉に「木に竹を接ぐ」があるけれど、これだって、おそらくは試みた人がたくさんいたに違いない。何度やっても、どう工夫しても駄目なので、ついに不可能という結論に達したのだと思われる。現代の品種改良の難題として有名なのは「青いバラ」の実現だ。バラも接ぎ木で改良が重ねられてきたが、経験則での「青いバラ」実現は、木に竹を接ぐような話とされている。そこでどこかの企業がプロジェクトを組んで、遺伝子の側から演繹的に攻めているそうだ(改良途中の花の写真が、新聞に載ったことがある)。でも、夢は失敗の経験を帰納的に積み上げた果てに実現するのでないと、夢そのものの価値が薄れてしまう。「交番でばらの接木をしてゐるよ」(川端豊子)でないと、ね。「夢」を季語にするとしたら、やはり春だ。『少長集』(1971)所収。(清水哲男)
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