独身宰相の登場。結婚していようがいまいが構わないが、しかし「独身者の論理、感性」は厳然とある。




2001ソスN4ソスソス25ソスソスソスソス句(前日までの二句を含む)

April 2542001

 乙鳥はや自転車盗られたる空を

                           小川双々子

の場合の「乙鳥」は「つばめ」「つばくら」「つばくろ」いずれの読みでもよいだろう。そんなに長くかかる用事でもないからと、駐輪場には停めずに、ちょっとそのあたりに置いておいた。さて帰ろうかと出てくると、自転車がない。私も盗られたことがあるのでわかるのだが、こういうときには、すぐに盗難にあったとは思わないものだ。置いた場所を間違えたのか、あるいは邪魔なので誰かが移動したのかと、しばし探しにかかる。でも、いくら探しても見当たらない。自分のと似たような自転車に触ってみたりしながら、だんだん盗まれたらしいという懸念が現実化してくる。弱ったなあ。不思議なもので、こういうときには何故か誰もが空をあおぎ見るようだ。と、まぶしい空を滑るように飛んできたのが初「乙鳥」だった。そこで作者は束の間、「はや」こんな季節になったのかと、途方に暮れている気持ちを忘れてしまうのである。燕は、とにかく勢いよく飛ぶ。その勢いが、人の日常的な困惑やら思いやらを、一瞬断ち切るように作用する。作者にはお気の毒ながら、自転車を盗られることで、飛ぶ「乙鳥」の心理的効果がはじめて鮮やかに具象化されたわけだ。おーい「乙鳥」よ、私の「自転車」をどっかで見かけはせなんだかーい……。『新大日本歳時記・春』(2000)所載。(清水哲男)


April 2442001

 夕闇の既に牡丹の中にあり

                           深見けん二

から、牡丹(ぼたん)には名句が多い。元来が外国(中国)の花だから、観賞用に珍重されたということもあるのだろう。大正期あたりに、おそらくは同様の理由から、詩歌で大いに薔薇がもてはやされたこともある。それだけに、現代人が牡丹や薔薇を詠むのは難しい。原石鼎に「牡丹の句百句作れば死ぬもよし」とあるくらいだ。さて、掲句は現代の句。夕刻に近いが、まだ十分に明るい庭だ。そこに咲く牡丹を見つめているうちに、ふと花の「中」に夕闇の気配を感じたというのである。繊細にして大胆な言い当てだ。やがて、この豊麗な花の「中」の闇が周囲ににじみ出て、今日も静かに暮れていくだろう。牡丹の持つぽってりとした質感と晩春の気だるいような夕刻の気分とが、見事に呼応している。上手いなあ。変なことを言うようだが、こういう句を読むと、花を見るのにも才能が必要だと感じさせられる。つくづく、私には才能がないなと悲観してしまう。ちょっとした思いつきだけでは、このようには書けないだろう。やはり、このように見えているから、このように詠めるのだ。さすがに虚子直門よと、感心のしっぱなしとはなった。ちなみに「牡丹」は夏の季語だが、晩春から咲きはじめる。もう咲いている。『花鳥来』(1991)所収。(清水哲男)


April 2342001

 春尽きて山みな甲斐に走りけり

                           前田普羅

正期の句。大型で颯爽としていて、気持ちの良い句だ。ちょこまかと技巧を凝らしていないところが、惜春という一種あまやかに流れやすい感傷を越えて、初夏へと向かう季節の勢いにぴったりである。雄渾の風を感じる。甲斐の隣国は、信濃あたりでの作句だろうか。この季節に縦走する山々の尾根を眺めていると、青葉若葉を引き連れて、なるほど一心に走っていくように見える。動かぬ山の疾走感。「ああ、いよいよ夏がやってくるのだ」と、作者は登山好きだったというから、さぞや心躍ったことだろう。こういう句を読むと、気持ちが晴れて、今日一日がとても良い日になりそうな気がしてくる。ちょこまかとした世間とのしがらみも、一瞬忘れてしまう。エーリッヒ・ケストナーの詩集『人生処方詩集』じゃないけれど、私には一服の清涼剤だ。ケストナーが皮肉めかして書いているように、「精神的浄化作用はその発見者(アリストテレス)より古く、その注釈者たちよりも有効である」。すなわち、太古から人間の心の霧を払うものは不変だと言うことである。自然とともに歩んできた俳句には、だから精神浄化の力もある。現代俳句も、もう一度、ここらあたりのことをよく考えてみるべきではないか。自然が失われたなどと、嘆いてみてもはじまらない。掲句の自然なら、いまだって不変じゃないか。『雪山』(1992・ふらんす堂)所収。(清水哲男)




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