良い手紙が来た。友人には手紙の名手が多い。私は駄目。何のことやらわからんとよく言われてきた。




2001ソスN5ソスソス2ソスソスソスソス句(前日までの二句を含む)

May 0252001

 桐咲くやカステラけむる口中に

                           原子公平

の花は初夏に咲く。周辺はまだ浅緑だ。そこに紫色の花が高く咲くので、遠望すると「けむっている」ように見える。その視覚と、口の中で「けむる」ように溶けていくカステラの味覚とが通いあい、しばし至福の時を覚えている。美花を愛で美味を得て、好日である。このようにゆったりとした心で桐の花を見たいものだが、都会ではもう無理だ。たまさか見かけるのは旅先であり、たいていは心急いでいるので、なかなか落ち着いては見られない。昨年見たのは、所用で訪れた北上市(岩手県)でだった。それも新幹線の駅前にあった木の花だから、とても「けむる」とは言い難く、なんだか標本か資料でも見ているような気がしたものだ。五月のはじめでは、あの駅前の桐もまだ咲いてはいないだろう。桐の花といえば、加倉井秋をに「桐咲けば洋傘直し峡に来る」がある。「峡」は「かい」、山峡だ。昔は都会でも見かけたが、一種の行商に「洋傘直し」という商売があった。町や村を流して歩き、折れた傘の骨の修繕などをする。桐が咲くのは梅雨の前。そこをねらって毎年「傘直し」が現われるというわけだが、風物詩としても面白いし、山峡の村に住む人々のつつましい暮らしぶりもうかがえるようで、よい句だ。この桐の花も、大いに「けむって」いなければならない。『酔歌』(1993)所収。(清水哲男)


May 0152001

 故旧忘れ得べきやメーデーあとの薄日焼

                           古沢太穂

穂、七十歳の句。「故旧忘れ得べき」は、高見順の小説のタイトルにもある。人生の途次で親しく知りあった人々のことを、どうして忘れられようかという感慨を述べた言葉だ。誰にも、どんな人生にも、この感慨はあるだろう。太穂の属した政党と私は意見を異にするが、そのこととは別に、老闘士のメーデーに寄せた思いは胸に染み入る。メーデーもすっかり様変わりしたことだし、いまとなっては古くさい感傷と受け取られるかもしれぬ。とくに若い読者ほど、そう感じるだろう。無理もない。時代の流れだ。だから私も、ここで句の本意を力んで説明したいとは思わない。わかる人にはわかるのだから、それでいい。代わりに、作者十二歳(1924年・大正十三年)より十年ほどの自筆の履歴を紹介しておきたい。「九月一日。父長患の後四十九歳にて死去。翌年一家離郷(富山)。その後、母を中心にきょうだい六人、東京横浜を転々。新聞配達、住込み店員、給仕、土工、職工、業界新聞記者、喫茶店経営など仕事と住居を変えること枚挙にいとまがない。その間、働きながら昼間夜間いくつかの学校に籍を置いたが、法政大学商業学校、東京外国語学校専修科ロシヤ語科を卒業。昭和九年十月十四日妹久子死す」。作者自身は、昨年亡くなられた。「妻の掌のわれより熱し初蛍」。第一句集『三十代』(1950・神奈川県職場俳句協議会)巻頭に「寿枝子病臥」として置かれた一句である。『古沢太穂』(1997・花神社)所載。(清水哲男)


April 3042001

 鳥篭の中に鳥とぶ青葉かな

                           渡辺白泉

葉の季節。軒先に吊るされた「鳥篭」のなかで、鳥が飛ぶ。普通に読んで、平和な初夏の庶民的なひとときがイメージされる。もう少し踏み込んで、青葉の自然界に出るに出られぬ篭の鳥の哀れを思う読者もいるだろう。いずれにしても、このあたりで私たちの解釈は止まる。それで、よし。ところで、この句は敗戦後三年目の作品だ。作者の白泉は、戦前の言論弾圧で検挙された履歴を持つ。戦前句には「憲兵の前で滑つてころんじやつた」「戦争が廊下の奥に立つてゐた」などがある。こういうことを知ってしまうと、解釈は一歩前進せざるを得なくなる。時こそ移れ、時代が如何に変わったとしても、白泉の時代揶揄や社会風刺の心は生きていると思うと、掲句をその流れにおいて読むということになる。すなわち、戦後民主主義批判の句であると……。主権在民男女平等などは、しょせん篭の鳥のなかで飛ぶ鳥くらいの自由平等じゃないかと……。こう読むと、せっかくの美しい青葉の情景も暗転してしまう。イヤな感じになる。俳人はよく「一句屹立」と言う。いわゆるテキストだけで、時代を越えて永遠の生命を得たいという夢を託した言葉だ。その意気は、ひとまずよしとしよう。だが、「そんなことができるもんか」というのが私の考えだ。あのメーテルリンクの教訓劇『青い鳥』の鳥だって、最後には逃げてしまい、いまだに行方不明なのだ。「一句屹立」の行き着くところは、束の間の青い鳥を自前の鳥篭で飛ばそうとすることでしかない。時代が変われば、解釈も変わるのだ。その証拠が、たとえば掲句である。白泉の仕込んだワサビは、もはや誰にも効かなくなった。『昭和俳句選集』(1977)所載。(清水哲男)




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