テレビはおそらくパソコンに吸収されるだろう。ファクシミリは、もう時間の問題だ。日曜予言。




2001ソスN5ソスソス13ソスソスソスソス句(前日までの二句を含む)

May 1352001

 泉汲むや胸を離れし首飾

                           猪俣千代子

集『堆朱』に所収というが、「俳句」(2001年5月号)の特集「夏の山野」で知った。自註に「一の倉沢から土合へ下りる途中の泉であり、生き返るようであった」とある。と言われても、私には未験の山だから、具体的な光景は浮かんでこない。でも、これはどこの山道だってよいわけで、眼目は「胸を離れし」にある。こしゃくな若者だったころに、私もペンダントをちゃらちゃらさせていたことがあるので、句の概要には身体的に思い当たる。泉を汲むために身をかがめれば、自然に「首飾」は「胸」から垂れて落ちる。当たり前だ。そのことだけを詠んだ句ではあるけれど、どことなく色っぽいのは何故だろう。「胸」のせいもあるだろうが、多分にこの色気は「離れし」という言葉から来ているのだと思う。つまり単に「垂れた」のだが、作者はひっついていた物が「離れ」たと詠んでいる。すべての身体的装飾品は、身体のしかるべきところに位置を占めることで、装飾の役割を果たす。そして、それがしかるべき位置を占めているときには、さながら身体そのもののように感じられる。当人だけではなくて、他人にも、だ。それが、思いがけなくも垂れてしまった。すなわち、一瞬かつ微少ながらも、身体のバランスが崩れたのである。色気とは、そんな身体の微妙なバランスの崩れや揺れに感じられるものではあるまいか。このときに「離れ」とは、「胸」の汗による粘着をも想起させる言葉でもあるので、「垂れ」よりも余計にバランスを崩したことになる。(清水哲男)


May 1252001

 線と丸電信棒と田植傘

                           高浜虚子

わず笑ってしまったけれど、その通り。古来「田植」の句は数あれど、こんなに対象を突き放して詠んだ句にはお目にかかったことがない。田植なんて、どうでもいいや。そんな虚子の口吻が伝わってくる。芭蕉の「風流の初やおくの田植うた」をはじめ、神事とのからみはあるにせよ、「田植」に過大な抒情を注ぎ込んできたのが田植句の特徴だ。そんな句の数々に、虚子が口をとんがらかして詠んだのだろう。だから正確に言うと、虚子は「田植なんて」と言っているのではなくて、「田植『句』なんて」と古今の歌の抒情過多を腹に据えかねて吐いたのだと思う。要するに「線と丸だけじゃねえか」と。何度も書いてきたように、私は小学時代から田を植える側にいたので、どうも抒情味溢れる句には賛成しがたいところがある。多くが「よく言うよ」なのだ。田植は見せ物じゃない。どうしても、そう反応してしまう。我ながら狭量だとは感じても、しかし、あの血の唾が出そうな重労働を思い返すと、風流に通じたくても無理というもの。明け初めた早朝の田圃に、脚を突っ込むときのあの冷たさ。日没ぎりぎりまで働いて腰痛はひどく、食欲もなくなった腹に飯を突っ込み、また明日の単調な労働のために布団にくるまる侘びしさ。そんな体験者には、かえって「線と丸」と言われたほうが余程すっきりする。名句じゃないかとすら思う。その意味からして、田植機が開発されたときには、もう我が身には関係はないのに、とても嬉しかった。これで農村の子供は解放されるんだと、快哉を叫んだ。『新日本大歳時記・夏』(2000)所載。(清水哲男)


May 1152001

 破れ傘一境涯と眺めやる

                           後藤夜半

破れ傘
井の頭自然文化園
の句を、長い間誤解していた。「破れ傘」を、植物の名前だとは露知らなかったからだ。破れた唐傘を眺めて、作者が「まるで俺の人生のようなものだ」と感じ入っている図だとばかり思っていた。大阪の市井に生き抜いた人の感慨であり、いかにも夜半らしい巧みにして真摯な句だと……。それでも、有季定型の人にしては季語がないのは変だとは感じたのだが、「傘」だから梅雨期だろうと勝手に読んでいた。それが皆さま、大笑い。あるとき、井の頭自然文化園の猫の額ほどの野草園を見るともなく見ていたら、写真の立て札が目に飛び込んできて愕然、驚愕。実は笑うどころではなく、目の前がすうっと暗くなるようなショックを受けた。帰宅して早速二、三の歳時記を開くと、どれにも夏の項目にちゃんと出ていた。「山地の薄暗い林下に生えるキク科の多年草。高さ六十から九十センチ。若葉は傘を半開きにした姿だが、生長するに従い破れた傘を広げたように見える。花よりも草の形がおもしろい」。花は未見だが、なるほどおもしろい形をしている。「破れ傘」としか、命名の仕様がないだろう。さて、こんな具合に正体を知ってしまうと、句の解釈は多少変わってくる。「境涯」への感慨には相違ないが、薄暗い林下に生えているのだから、日陰の人生であり、必ずしも作者自身のそれでなくともよくなってくる。たとえば廓に生きた薄幸の女を想う心が、このように現われたとも読めてくるのである。『破れ傘』(ふらんす堂文庫)所収。(清水哲男)




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