不義理解消デー。「若くないと手紙も書けません…」と葉書に書いたのは犀星だった。私のは無精。




2001ソスN5ソスソス19ソスソスソスソス句(前日までの二句を含む)

May 1952001

 市電の中を風ぬけ葵まつり過ぐ

                           鈴木鷹夫

祭の季節。今日は浅草・三社祭の町内神輿(みこし)連合渡御、明日は本社神輿渡御。江戸第一の荒祭として知られ、今でも非常に人気が高い。今年も、ものすごい人出になるだろう。ただし夏祭の元祖は京都の「葵祭(賀茂祭)」で、昔は「祭」と言えば葵祭のことだった。こちらは荒祭とは対極にあり、葵で飾った牛車を中心に、平安期さながらの美々しい共奉の列が都大路を粛々と進む。毎年五月十五日に行われているので、句はちょうど今ごろの京都を詠んだものだ。私の個人的なノスタルジーからの選句だが、「昔のいまどき」の京都の雰囲気をよく伝えている。冷房設備のない市電は窓を開けて風を入れながらゆっくりと走り、近くの山に茂る青葉を背景にして、古い町並みの美しさが際立つ。「風ぬけ」とは薫風の心地よさを言っているのと同時に、祭が終わった後のいささかの「気ぬけ」にもかけられているようだ。やがて、じめじめとした雨の季節がやってくる。それまでのしばしの時を思い、作者は祭の後の静けさのなかで「風」を楽しんでいる。土地土地の祭は季節を呼び寄せ人を呼び寄せ、呼び寄せては消えていく。「荷風なし万太郎なし三社祭」(宇田零雨)。いつに変わらぬ賑わいの祭だが、人もまた消えていき、ついに戻ってこない。『合本俳句歳時記第三版』(1997・角川書店)。(清水哲男)


May 1852001

 郭公や寝にゆく母が襖閉づ

                           廣瀬直人

公(かっこう)が鳴いているのだから、昼間である。外光はあくまでも明るく、郭公がしきりに鳴いている。この好日に、老いて病身の母はとても疲れた様子だ。「少し休みたい……」と言い、次の間に「寝に」立った。そろりそろりと、しかしきっちりと、作者の前で「襖(ふすま)」が閉められる。たかが襖ではあるけれど、きっちりと閉められたことにより、残された作者の心は途端に寂寥感に占められた。襖一枚の断絶だ。細目にでも開いていれば、まだ通じ合う空気は残る。しかし、このときの襖を隔てた向こうの部屋は、もはやこちらの部屋とは相いれぬ世界となった。急に、母親が遠く手の届かぬ見知らぬ世界に行ってしまったようだ。いくつになっても子供は子供と言うが、逆もまた真なりで、いくつになっても親は親である。とくに母親は、いつまでも元気に甲斐甲斐しく家事を切り回す存在だと、どんな子供も漠然とそう信じて生きているだろう。だが、決してそうではないという現実を、この真昼に閉ざされた一枚の襖が告げたのである。郭公は、実に明るいような寂しいような声で鳴く。そこで時代を逆転させ、掲句に一句をもって和するとすれば、すなわち「憂き我をさびしがらせよ閑古鳥」(松尾芭蕉)でなければなるまい。ちなみに「閑古鳥(かんこどり)」は「郭公」の異名である。『朝の川』(1986)所収。(清水哲男)


May 1752001

 新緑や濯ぐばかりに肘若し

                           森 澄雄

だ電気洗濯機がなかったころの句。新緑の候。よい天気なので、妻が盥(たらい)を庭先に持ちだして、衣類を濯(すす)いでいる。一心に洗濯に励む妻の若さが、よく動く白い「肘」に象徴されている。新緑の若さと呼応しあって、眩しいばかりだ。当時は「洗多苦」などとも韜晦された楽ではない「洗濯」だし、妻には単なる家事労働の一つでしかないのだけれど、傍目の夫にはかくのごとくに彼女の姿が認められたというわけだ。眼前の妻の女身の若さを「新緑」で覆い飾るようにしてて賛美している。いま「肘」が象徴であると言ったのは、作者三十年後の句に「野遊びの妻に見つけし肘ゑくぼ」を、私が知っているからでもある。掲句で作者が見ていたのは、実は「肘」ではなくて、彼女の肉体全体のしなやかさなのであった。案外、人は見ているようで、年齢や環境によって見えないところも多々あると言うべきか。いや、見なくてもよいところこそが、多々あるということだろう。さて、余談。国産初の噴流式電気洗濯機を三洋電機が発売したのは、1953年(昭和二十八年)夏のことだった。価格は、民間給与ベースの約三倍の28,500円だ。ちなみに、この年あたりから蛍光灯が普及しはじめる。「電化元年」などと言われ、だんだん庭先での「肘」の動きも、見ようとしても見えないことになった。俳句は、時代の生活実態や慣習、風俗の記録としても面白い。貴重なドキュメントだ。『雪檪』(1954)所収。(清水哲男)




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