初スタジオは、ガタつかずに無事終了。ただ、手違いでインターネットが一週間使えないのは痛い。




2001ソスN5ソスソス25ソスソスソスソス句(前日までの二句を含む)

May 2552001

 四百の牛掻き消して雹が降る

                           太田土男

事で出かけたグランド・キャニオンで、猛烈な雹(ひょう)に見舞われたことがある。鶏卵大と言うと大袈裟だが、少なくとも大きなビー玉くらいはあった。そいつが一天にわかに掻き曇ったかと見るや、ばらばらっと叩きつけるように降ってきた。やばいっ。幸い近くにあったモーテルに逃げ込み、持っていた8ミリカメラを夢中で回した。あのときのフィルムは、まだ家のどこかにあるはずだが……。降っていた時間は、せいぜい十分ほどだったろうか。止むとすぐに、嘘のような青空が広がった。歳時記などで「雹」の解説を見ると、人畜に危険なこともあると書いてあるが、本当だ。掲句の舞台はむろん国内で、自註によると栃木の牧場である。日本でも、こんなに猛烈な雹が降る土地があるとは知らなかった。「四百の牛」とはほぼ実数に近いとも読めるが、私は「たくさんの牛」と読んだ。「四百四病」「四百余州」と言うように、「四百」は多数も意味する。そのたくさんの牛たちが、いっせいに見えなくなるほどに降るとは、なんたる豪快さ。恐いというよりも、むしろ小気味のよい降りだったろう。自然を満喫するとは、こういうことに違いない。身辺雑記的人事句も悪くはないが、このような句に「掻き消され」てしまうのは止むを得ないところである。『太田土男集』(2001)所収。(清水哲男)


May 2452001

 青嵐おお法螺吹きをくつがえす

                           三宅やよい

快痛快。「おお」は「大」とも読めるが、感嘆詞として読むほうが面白い。日頃から大言虚言を吐きつづけてビクともしない憎たらしい奴が、折からの「青嵐」に見ん事ひっくり返されちゃった。ザマア見やがれ、なのである。「なぎ倒す」などではなく「くつがえす」と言ったのは、むろん「論理を『くつがえす』」という概念が作者の意識にあるからだ。この句は実景として「法螺(ほら)吹き」がひっくり返った様子を想像することもできるし、比喩として「法螺吹き」が強力かつ精密な有無を言わせぬ論理(青嵐)によってやり込められたと読むこともできる。いや、その実景と比喩が重なって喚起されるから面白いと言うべきだろう。この題材にしては、少しの陰湿さも感じさせないところも素敵だ。同じ作者に「リリーフは放言ルーキー雲の峰」がある。口ばかり達者な「ルーキー」というのも、まことに可愛げがなく憎たらしい。そいつが、ついに「リリーフ」に出てきた。「ああ、こりゃもうアキまへん」と、作者は天を仰いだ。天には、モクモクと入道雲が涌き出ている。にわかに暑さが実感され、ゲームへの集中力が切れてしまった。さあて、ボチボチ引き上げるとするか。『玩具箱』(2000)所収。(清水哲男)


May 2352001

 蒼き胸乳へ蒼き唇麦の秋

                           夏石番矢

ガとポジの対比の構図が印象深い。画家の色彩で言えば、ピカソの青(蒼)とゴッホの黄が一枚の絵に塗られている感じだ。「蒼き胸乳(むなぢ)へ蒼き唇」とは、男女相愛の図か、それとも授乳のそれだろうか。どちらに読むかは読者の想像力にゆだねられているが、前者とすれば、いわば「頽廃と健全」との対比となろうし、後者ならば「貧富」の差を象徴的に浮き上がらせた句と読める。私は、初見では前者と読んだ。しかし考え直して、あえて後者と読んでみると、貧しさゆえに満足に母乳の出ない乳首に、本能的に「唇」を寄せる赤子の姿が痛々しい。と同時に、蒼き「口」ではなく「唇」としたところに、なおさら本能の生々しさを感じさせられる。窓外一面に熟れて波打つ麦は、この母子には無縁の作物なのである。いずれにしても、テーマは動物としての人間の哀しみだろう。明暗を対比させた句は珍しくないが、単に明暗の対比に終わることなく、一歩進めて本能を繰り出すことにより、人間存在のありようを確かに言い止めている。これからの梅雨を控えて、農家は忙しくなる時期だ。麦は「百日の蒔き期に三日の刈り旬」と言う。麦畑が光彩を放つ季節だけに、掲句の「蒼」の鈍い光が、いよいよ重く胸に沁み入る。『猟常記』(1983)所収。(清水哲男)




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