G4Cubeが立ち上がらない。いろいろやっても駄目。念のためと電源コードを接続し直したら直った。




2001ソスN5ソスソス29ソスソスソスソス句(前日までの二句を含む)

May 2952001

 鴨居に頭うつて坐れば水貝よ

                           波多野爽波

波は長身だった。「寝そべりてわが長身や楝咲く」がある。「楝(おうち)」はセンダンの古名で、夏に咲く。しかし、いかな長身といえども、普通の家の鴨居(かもい)に頭をぶつけることは稀だろう。長身の人は日頃から腰をかがめるなどして、それなりに用心しているからだ。私は「船遊び」の図だと見る。納涼船の部屋の鴨居ならば、普通の背丈の人でも、少し腰をかがめないと入れない。もちろん作者もかがめたのだが、見当が狂った。いきなりガツーンと来て、くらくらっとなった。打ったデコチンに手を当てて、とにかくよろよろと坐り込む。しばらく目を閉じて痛みをこらえ、おさまりかけたので目を開けてみると、好物の「水貝(みずがい)」がクローズアップされて目に入ってきたというのだ。おお「水貝よ」。泣き笑いの感じがよく出ていて、とぼけた可笑しさがある。こんなことまで句にしてしまうところが、爽波一流の諧謔精神の発露と言えよう。ちなみに、「水貝」は新鮮な生アワビの肉を賽の目に切り、氷片を浮かせて肉をしめ、塩を少々振った料理だ。ワサビ醤油やショウガ酢などで食べる。夏の季語。『骰子』(1986)所収。(清水哲男)


May 2852001

 茄子転がし妻の筆算声に出づ

                           米沢吾亦紅

方、買い物から帰ってきた妻が、買ったものの総額を計算している。昔は、現代のスーパー・マーケットのようにレシートをくれるわけではないので、値段を忘れないうちに計算しておく必要があった。後で、家計簿に転記するためだ。その「忘れないうちに」の緊急性が「茄子転がし」によく言い止められている。買い物篭から茄子が転がり出るほどだから、買い物の量も普段より多かったにちがいない。それをパッパッと手早く正確に計算するには、「ええっと、137円足す258円は……」のように声を出しながら確認するほうがやりやすい。べつに妻が計算が苦手というのではなく、経験から自然に出てきた知恵なのである。なんでもない情景だが、夕刻の主婦の忙しさを描いて秀逸だ。同時に、日々事もなき平和な家庭の雰囲気も漂ってくる。男性版「台所俳句」というところ。最近はパソコン用の家計簿も出回っており、ずいぶんと記帳も楽になったはずだが、レシートがもらえるだけに、かえってその日のうちに記帳する人は減ったかもしれない。何日分かをまとめて打ち込もうと思っているうちに、レシートは溜まる一方。なんてことになっているのは、あながち我が家だけとも思えないのですが。『俳諧歳時記・夏』(1968・新潮文庫)所載。(清水哲男)


May 2752001

 黄金の蓮へ帰る野球かな

                           摂津幸彦

者は「蓮」を「はちす」と古名で読ませている。この句に散文的な意味を求めても、無意味だろう。求めるのはイメージだ。そのイメージも、すっと目に浮かぶというようなものではない。「黄金の蓮」はともかく、句の「野球」は視覚だけでは捉えられないイメージだからだ。強いて定義するならば、全体のどの一つが欠けても、野球が野球として成立しなくなる全ての「もの」とでも言うべきか。ここには人や用具や球場の具体も含まれるし、ルールや記録の概念も含まれるし、プレーする心理や感情の揺れや、むろん身体の運動も含まれている。その「野球」の一切合切が「黄金の蓮」へと帰っていくのだ。帰っていく先は、すなわち蓮の花咲く極楽浄土。目には見えないけれど、作者は全身でそれを感じている。句作の動機は知る由もない。が、たとえば生涯に二度と見られそうもない良いゲームを見終わった後の感懐か。試合の余韻はまだ胸に熱いが、もはやゲームが終わってしまった以上、その「野球」は永遠に姿を消してしまう。死ぬのである。いままさにその「野球」の全てが香気のように立ちのぼつて、この世ならざる世界に帰っていくところだ。いまひとつ上手に解説できないのは口惜しいが、好ゲームが終わって我ら観客が帰るときに、ふっと胸中をよぎる得も言えぬ満足感を、あえて言語化した一例だと思った。『鳥屋』(1986)所収。(清水哲男)




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